5、叙任前夜(4)
騎士がブーツを鳴らしながら向かったのは、高級住宅街だった。
貴族のアパルトマンが密集する中で一際大きな庭の茨の巻き付いた門をくぐる。
すると使用人に車椅子を押されている男の影が見えた。
ごくりと唾を一つ飲み込んでセルゲイはこわごわと右手を挙げた。
ブロンズの髪の男は残された左目で、笑顔を貼り付けている従騎士をすぐに認めてくれた。
「フェネト……」
二歳年上の彼――フェネトは現シュタヒェル騎士団団長デ・リキア伯爵の長男で、かつてのセルゲイの同期である。
去りし日々にドーガス子爵のもとで共に研鑽を積んだ友人にして、もっとも未来ある従騎士の一人だった彼は、あの事件をきっかけに騎士団を退団していた。
「二人きりにしてくれ」
セルゲイは使用人に二つ目のチェッカーボードケーキを持たせると、彼に代わって車椅子を押す役目を引き受けた
使用人が扉の影へ消えたのを見計らい、車椅子を押しはじめる。
再び転がり出した車輪がきいと一つ音を立てて散歩道の小石を踏みしめた。
「元気にしてたか? 足はどうだ?」
「悪くない。医者から杖をついてでも歩けと言われているぐらいには」
フェネトのテノールにくすりと笑いが混じり、少しほっとする。
「でも、響くから車椅子を使っているんだろ?」
「みんな過保護でね。どこへ行くにも連れて行ってくれるのさ」
「大事なデ・リキア家の跡継ぎだもんな」
降り注ぐ木漏れ日に似た柔らかいテノールに彼の上機嫌が窺われる。
セルゲイは彼に気取られぬよう安堵の息を細長く吐き出した。
「目の方はどうだ?」
「ご覧の通り、痛くもかゆくもない」
と言ってフェネトは眼帯に守られた右目を軽く撫でた。
セルゲイはぎくりとして足を止めてしまった。
「フェネト、俺――」
「謝るな。そのために来たんじゃないだろう」
車椅子から肩越しに見上げてくれる親友のブロンズの髪が陽に透けて金色に燃えている。
「もう十分だ。謝罪なら言葉でも金でも、必要なだけもらった」
「でも、あんなことがなければ、お前は今でも騎士団にいられた!」
セルゲイはフェネトの背中に向かって勢いよく深々と頭を下げた。
もう何度目かもわからない。
あれはセルゲイが負った罪でこれからも償い続けなければならないものだった。
「何度謝っても気が済まない。だって、全部俺が悪いんだ。あの時、俺が剣を間違えたと試合を中止していれば。あんなことがなければお前が王子近衛騎士になっていたはずだ!」
黙りこくったままの二人の間をさやさやという葉末のささやきが埋める。
そこへ砂砂利がちりちり言う音が混じった。
フェネトが自力で車輪を回して振り向いてくれたのだ。
「だからもういいって、セルゲイ」
彼は今や一つだけになってしまった海色の瞳を切なげに弓なりにした。
瞳を包む長い睫毛が優しく羽ばたく。
「買いかぶりすぎだ。僕に王子のお付きが務まるものか」
「そっちこそ。俺は永遠の二番手だと思ってる」
とセルゲイがくちびるを突き出したのとほぼ同時に、急に脛に痛みが走った。
フェネトの左足が遠慮無く蹴ってきたのだ。
「俺の分も出世してくれよ、セルゲイ」
彼は両腕で車輪を回して友人に背を向けると、その先にある噴水に向かって進み出した。
「今後、国民がアルバトロスと聞いたときに答えるのが〈幸運の鳥〉――海運業の雄アルバトロス商会ではなく、叩き上げの騎士セルゲイ・アルバトロスとだというくらいにな!」
と、車椅子の青年は背中越しに笑いかけてきた。
彼の邸宅、その中庭を散策する二人に陽光が惜しげもなく降り注ぐ。
いつの間にか強まった日差しに気づけば少し汗ばんでいた。
フェネトも同じだったのだろう。
彼は真っ直ぐなブロンズの前髪を丁寧に耳にかけ直していた。
ともすれば女性らしいこの仕草は彼の手癖だった。
二枚目だから実に様になる。
「わかった」
セルゲイは友の車椅子に手をかけると再び押しはじめた。
「せっかくだし、もう一発殴っておこうかな」
「止めろって。明日が刀礼なんだぞ」
二人はくすくす笑いあうとどちらともなく空を仰いだ。
木々の緑葉が青空を額縁のように囲っている。
デ・リキア家の三段仕掛けの噴水の前に着くころにはセルゲイのわだかまっていた気持ちも幾分落ち着きはじめていた。
許しを与えてくれた寛大なフェネトには感謝しかない。
薔薇の蔓が巻き付くベンチに車椅子を寄せてセルゲイも座る。
風に散らされた噴水のかけらが顔に涼しくて心地よい。
「いよいよか」
とフェネトが低く言ったのにセルゲイは頷いた。
「ああ。お前は?」
「僕も参列を許された。お前の方は? 今日は一人か?」
「いや、殿下も。連れてけって命令された。マルティータ様によっぽど会いたかったんだな」
「そうか、珍しいな。籠もりがちのあの方が」
「殿下はあの方を心底愛してる。猫背ともしょもしょ声が直るのはあの方の前でだけだ」
セルゲイは苦々しく親友の横顔をじっと見つめたが、フェネトはそれを知ってか知らずか、噴水を残された左目で愛でている。
「俺さ、やっぱり気の毒だと思う」
気づけばセルゲイは本音を零していた。
「ああいうの、血気盛んな陛下の思いつきそうなことだ。でもデ・リキア卿まで賛成するなんて――」
「父上にもお考えがあるのだろう。僕は一仕掛け人として明日の刀礼と婚儀を見届けるだけだ。お前だってそうだろう」
ドーガス子爵の庇護下でともに騎士の十戒――騎士道のなんたるかを学んだ男にそう言われると、セルゲイも返す言葉を持たなかった。
騎士は神や正義ではなくまず主君とその家柄の名の下に頭を垂れて剣と盾、騎士の称号を得る。
つまり家臣たる彼らが主君の命を背くことはすなわち、騎士を辞するのに等しかった。
刹那、天空で微笑んでいた太陽が雲に隠れた。
正義ってなんだろう。
セルゲイは吹き付ける風の痛さに目をしばたたかせた。
正しさとは。
敵対する相手に勝ったとしても失う物がある。
いや。セルゲイは頬の裏を噛んだ。
失う物のほうが圧倒的に多い。
勝利に輝くのは栄光ではない。
しかも、主君の考えに反対意見を持っている。
俺、騎士に向いていないのかも。
思わず吐きそうになった弱音をフェネトの手前ぐっと飲み込んだ。
「俺、納得できない。これまでも。きっと、これからも」
そして、膝の上で拳を握り直した。
「でもこんなことでもなけりゃペローラ諸島になんか行けないからな。俺にも何かできるかもしれない。ま、期待せず待っててくれよ」
フェネトははっとしてセルゲイを見つめてきた。
「お前、どうしてメイアのことを……!」
「マリ・メイア嬢。なんで妹がいるって教えてくれなかったんだよ。水臭い。デ・リキア卿から聞いたぜ。ペローラ諸島でのクルージングの最中に行方不明になったきりなんだってな。しかも生きていたら俺と同じ十八歳。俺、お前の代わりになんてなれないけどさ、探してくる。青い目にブロンズの髪、お前に似た娘なら俺にはすぐわかるって」
これは任務ではない。
けれど騎士団長デ・リキアがこっそりと伝えてくれたところをみるに、一縷の望みを託してくれたに違いない。
彼が肌身離さず付けているロケットの中、マリ嬢の幼い日の肖像画も目に焼き付けた。
役に立てるのなら働きたい。
「お前の正義感にはお手上げだ、セルゲイ」
「奥様に似て、いいカラダに間違いないだろうし」
へへっと笑顔を絞り出したセルゲイの肩を、親友が小突いた。
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