5、叙任前夜(3)
ピュハルタ市街に入ってからは楽なものだった。
城門のすぐ傍にある厩に運良く空きがあって二頭の馬を簡単に預けられたし、道すがら宿屋〈桃色の芍薬〉亭で狙っていたチェッカーボードケーキを二つ買えた。
白と桃色がボード板よろしく交互に並ぶ見た目にも美しいケーキはこの店の名物である。
母から娘へと受け継がれている菓子のおいしさに、知る人ぞ知る名店となっている。
「セルゲイ、私もこれを知っている!」
さっと頬を薔薇色に染めた王子の声はやはりふわふわしている。気が抜けてしまいそうだ。
「美味いよな、ここのケーキ。それにやっぱ手土産があったほうがいいだろ?」
「気が利く」
「なに、紹介料さ」
感心の眼差しがあまりにくすぐったくて気付けば口から冗談が飛び出していた。
が、肝心のグレイズはきょとんと首を傾げただけだった。
***
裏路地から大通りに出ると周りが人々で賑やかになった。
きょろきょろと見回すグレイズの顎が上がりっぱなしだ。ヴァニアス本島の中央部に位置する王都ファロイスの出身――生粋の都会っこであるにもかかわらず、見るもの全てに首を伸ばし青い瞳を輝かせている。二年前に成人してからもぐんぐん背丈を伸ばし、今や六フィートの身長を誇っているのに、まるで小さな子どものするようだ。今だけは猫背も少し直っている。
無邪気にもほどがある。セルゲイの心が不思議とこそばゆくなる。
しかし、白で統一された壁と建物の面白さはいつまでたってもわからない。
「そんなに楽しいか?」
「ああ! 一度、馬車から降りて歩いてみたかった。ようやく、夢が叶ったぞ!」
グレイズは笑顔を満開にして、従騎士を振り返った。
「セルゲイ、君のお陰だな」
穿ったところの一つも無い、なんとまっすぐな少年だろう。
あまりの眩しさに、セルゲイはたまらず目を細めた。
覇王然と武力を誇る国王と比べて、人はなにかと王子を気弱だとか小心者だとか評価する。
けれども彼の美点は雄々しさではない――少なくともセルゲイはそう思っていた。
「けど、しばらく神子姫様のところにいたのに知らなかったんだな〈桃色の芍薬〉亭」
「ああ。チェッカーボードケーキは宮廷で作らせているとばかり思っていた。しかしよく知っているな。話したことがあっただろうか?」
丸められた王子の瞳は美しく大きなサファイアを思わせた。または新品の硝子玉か。
それか風の吹き渡る一点の濁りもない青空のようだ。
と、人波に流されぬよう首の向きを直す。
「親父さんが何につけても言ってたろ。『ピュハルタで一年サボったツケだ』って」
「……そうだな」
ちらと視線でグレイズを伺うと、水を得た魚であった様子がみるみるうちに萎んだ。
なんとわかりやすいことだろう。
檻から出て羽を伸ばしていたところに檻そのものである父王を思い出したからに違いない。
「悪かったって」
「君が謝ることはない。私が一年怠けていたのは事実なのだから――」
「別に一年休んだぐらいでうるせえのな。ケツの穴が小せえ! で、なんだっけ。俺の話か」
いけない。セルゲイは本能的に口を挟んだ。
生真面目なグレイズは事あるごとに自責を繰り返し、自ら萎縮するきらいがあった。
すっかり落ち込むと面倒くさい。
「俺の方は、預けられた当時ドーガス卿が神聖騎士団にいらっしゃったから、その都合でな」
セルゲイは自慢のハイバリトンをとりわけ明るく響かせて笑いかけた。
すると王子は指折り数える従騎士をはにかんでくれた。
「何年ぐらいだろ。九歳のときから十七歳までだから――」
「八年。八年の間、小姓時代から慣れ親しんだ街なのだな。私とは逆だな」
「っていうと?」
「私は九歳までピュハルタで暮らしていた」
初めて聞く話だ。
そして、息をするような自然な会話だ。やればできるもんだな。
セルゲイは雑踏に警戒し耳を澄ませながら聞いた彼の話に相槌を打った。
「九歳になったその日、父上にケルツェル城へ連れ出され、それから修行の日々を過ごした」
「逆どころか俺と同じだ。まるで小姓じゃねえか」
「ああ。幾度となくそう思った」
「それで逃げ出した、と」
「……そうだな」
このように、二人は他愛ない話をしながら聖都ピュハルタを観光した。
話してみればなんてことはない、生まれと境遇が特別なだけの奥ゆかしい少年だ。
確かに騎士団ではあまり見かけないけれど大学に行けば少なくない人種であろう。
また、ゼ・メール街道での自らの言い分に誤りがあったことも認めねばならない。
グレイズには対話の余地がある。
この点で父王ブレンディアン五世と決定的に違った。
セルゲイが従騎士として一年、ケルツェル城で見た限り国王はほとんど独裁者であった。
国会や議員という手綱が無ければ敵とみなした者に全て噛みつくような狂犬であり、武器なきときには言葉の暴力を大いに振るうのだ。
なんだ、全然話せるじゃねえか。
セルゲイはこっそりとグレイズを認めながら反省した。
王子と従騎士の間に深い溝を作り出していたのは他ならぬ己であると。
そのうちにがたがたと重たい車輪の音が近づいてきた。
王子は上機嫌ですれ違う人々の顔の一つ一つを見ていて気づかない。
「よそ見すんなって」
グレイズの首根っこを掴んで引っ張ると彼のいた場所を商人の馬車が揚々と進んでいった。
「す、すまない」
主君は何かにつけてすぐに謝り恐縮するからセルゲイはそのたびに彼の猫背を軽く叩いた。
その瞬間だけは背筋がしゃんと伸びて元来の格好よさが現れる。
いつもそうしていればいいのに。
同時に師の気持ちを理解した気分でもある。
むかしドーガスさんも同じ気持ちで俺を指導してくれてたのかな。
「あと、すぐ簡単に謝るなよ。なんでも先に謝るとなめられちまうぜ」
今のはきつすぎたか。けれど本音には違いない。
セルゲイは王侯貴族特有の奥ゆかしさや婉曲表現は苦手だ。
商家の出身だからかもしれない。
嘘をつくなどもってのほか、常に本音しか言えない。
だから師ドーガスから余計なことを言うなと釘を刺され続けてきた。
グレイズとは毛色の違う不器用の自負がある。
だからだろうか。彼が意見を口の中で弄びつつも何も言えないのが鼻につくのは。
「そういうものか」
サファイアブルーの瞳がしゅんと曇るとセルゲイの罪悪感が音を立てて芽生える。
「勉強になる……」
本来は主君であるグレイズを舎弟のように連れて歩くのはなんだか複雑な気分がする。
遠慮はしないと言ったもののまだ気も使う。
だが王子本人はリラックスしてピュハルタを見物し、セルゲイに心を許している。
そのためか修行と付き添いの一年で知り得なかったことを今日一日だけでたくさん見聞きできた。
安心して観光ができるのは俺がいるからかな。
そう思うことにすると不思議な誇らしさがあった。
「セルゲイ、そろそろ、ベルイエンへ行かないか。……君の邪魔をしすぎたようだ」
カフェのテラスでレモネードのグラスを乾かしたグレイズがおずおずと申し出た。
それをセルゲイは前者にイエスを、後者にノーを返して言われた通りにグレイズをベルイエン離宮へ連れて行った。
紅白の薔薇が並ぶ王家の紋章、通称〈ヴァニアスの薔薇〉が縫い取られたシュタヒェル騎士団のマントさえあれば離宮のすぐ隣に併設されている神聖騎士団の城までは自由に入ることができたし、離宮の城門まで行けばグレイズの王子としての顔が利いた。
「ファロイスの土産だ。当番の皆で分けたまえ」
と、グレイズの代わりに言ったセルゲイが飴の入った瓶を門番に渡す。
彼らは突然現れた王子に驚き、丸めた目と口をそのまま笑顔にした。
それを見たグレイズの口元が小さくほころんだのをセルゲイは見逃さなかった。
「じゃ、俺はここで」
「一緒に行かないのか」
きびすを返した従騎士の軽く挙げた手にかじりつかん勢いでグレイズが追いかけて来た。
「叔母上に呼ばれたのは君だ。私はただ、それにかこつけてついてきただけで――」
「寄るところがあるんだ」
「ならば私もともに」
フードを肩口に落としながら言うグレイズの額で金細工のティアラが煌めいた。
セルゲイは肩をすくめてみせた。
「お前の知らない奴に会うんだぜ。大丈夫。時間までには戻る」
「……わかった」
忠犬のように生真面目に頷くグレイズにセルゲイは一つニヤリとしてみせた。
「ケーキ、マルティータ様と一緒に食べながら待っててくれよな」
その瞬間グレイズの顔が一瞬で上気した。
やっぱりそういうことか。セルゲイはにんまりした。
寡黙で遠慮がちな王子がなぜか問答無用でセルゲイを呼びつけてピュハルタへお忍びで連れて行けと命令したのにはやはり特別な理由があったのだ。
「いや、君を待つよ、セルゲイ」
セルゲイは首を傾げた。その拍子にぽきりと筋が音を立てる。
「お姫様も待たせちまうけど?」
「それは我慢してもらうよ。彼女もきっと君に会いたいだろうから」
明るく微笑んだグレイズがチェッカーボードケーキの一つを両手に抱えて離宮に入っていくのを見送るとセルゲイは再び歩き出した。
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これからもどうぞよろしくお願いいたします。
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