5、叙任前夜(2)
王子にはこれまで友だちがいない。
このように意思疎通がこんがらがるなど人付き合いが不器用なので薄々そうではないかと思っていたが、それが確信に変わった。
高貴な身の上のために交流が制限されたなど理由はいろいろ挙げられるだろうがとにかく友だちを作った経験がないのだろう。友だちがいなくなったことも。ちくりとセルゲイの腹が傷む。
いや、まてよ。セルゲイは一つ訝った。
王子には婚約者――サンデル公女マルティータ姫がいるじゃないか。
マルティータ姫は恐らく彼にとって初めての友であり恋人なのだろう。
男のセルゲイ相手にともすれば恋人のように心と体を寄せてくる理由がわかるというものだ。
逆に言えば友人関係に失敗したこともないはずだ。
そう考えた瞬間、セルゲイの首が閉まり、胸がどくどくと嫌な音を立てはじめた。
「……別に殿下のことも、殿下を友だち扱いするのも嫌じゃないです」
それから逃げるように気づけば声を絞り出していた。
いじけた声音が情けない。
「でも物事には順番ってのがあるんですよ。俺の気持ちを置いてけぼりにしないでください」
「ではどうすれば?」
固唾を呑んでグラスタン王子の返事を待つ時間は永遠のように長かった。
「私は父上と同じことを君にしていたのか……」
そのうちとぼとぼと歩いていた王子の足が止まった。
「ありがとう、セルゲイ。忖度無しの助言、痛み入る」
「……俺、首ですかね」
人の気も知らないで。
セルゲイは溜め息を深呼吸に隠すと歯の隙間からぼそぼそ言った。
「いいや。誰が君を手放すものか。口調は直さずそのままで頼む。気風のよさが気持ちいい。君は港町の生まれだったか。だから潮風のようなのだな。傍若無人だが広々としている」
と王子はほろ苦く微笑んだ。
「益者三友。直きを友とし、諒と友とし、多聞を友とするは益なり」
それはほとんど呪文だった。
そもそも同じヴァン語だったかも怪しい。
王子の言う意味がわからなくてセルゲイはくちびるを一文字に結びきった。
二人の間に重たい沈黙が横たわる。
「……と」
居心地の悪さに生唾を飲み込んだそのとき、続きが始まった。
「東洋の君子論にあった。隠さず直言する素直な者、裏表のない真心のある誠実な者、博識な者を友とするのは有益である、と」
「ふうん」
手元にない書物をするりと引用されると育ちの違いをまざまざと感じさせられる。
加えて本の知識を披露するときのグラスタンの顔と言ったら。
まるで世界の理や世界一美味しいもの、宝物を見つけたように輝くのだ。
なるほど話してみるとよくわかるものだ。
距離感がわからずにいたのはセルゲイも同じかもしれない。
「その逆とかってあんの?」
ほとんど無意識に尋ねてちらりと伺うと王子の瞳に明るい光が入った。
「ある! 損者三友。便辟を友とし、善柔を友とし、便佞を友とするは損なり」
「えーと、つまり?」
「体裁を飾る素直ではない者、表面を取り繕い媚びへつらう者、口先だけ達者で誠意のない者を友とするのは有害である」
ちくりと痛んだ心に思わず顔ごと背ける。
俺はそんなに立派な男じゃない。
「こうした者は宮廷内で――特に父上の周りでよく見かける。気性の荒い父上に取り入るのはさぞかし大変だろうがそれとて何の意味があるだろう。立身、虚偽、欺瞞。金満を得られたとて、真の幸福を逃がすだけ。よりよき人生のためには騎士道の何たるかを知るべきだ」
「それ、本人たちに言ってやりゃいいのに」
「言って利があると?」
「言わないと変わんねえだろ」
二人は視線を交わらせた。
「私は敢えて命令しない。だが、いつか君から友と認められるように努力しよう」
「わかった。後悔するなよ」
従騎士はこぼれ落ちてきた前髪を撫でつけた。
知らねえよ! と一年前のセルゲイならすぐに返していただろう。それをごくりと飲み込む。
実際、セルゲイ自身も友だちの作り方などよくわからない。
説明されることもすることもなかった。
なんとなく知り合って、顔を見れば挨拶して、暇が合えば食事で愚痴を分かち合い、ときに衝突しては仲直りをして。
そういうものだと思っていた。
ほんの小さなすれ違いに断絶する人もみた。
そんな他愛もない日常を繰り返すうちに増えたり減ったり、そして続いていくのが友だちだと思っていた。
人々と関わるうちに勝手に構築されるもの――人間関係を意図的に作るだなんて考えたこともない。
いや。心当たりが一つある。
人肌恋しい夜にたまたま女の子と出会ったときに使うテクニックはある。
酒を飲みかわして話を聞いてやるとか、あらゆる美点をでっちあげるとか、歌ってやるとか。
するとたちまち心と体を許して一気に距離を縮められる。
だがそういう付け焼刃な関係は男女に限るものだし、大抵一晩きりで終わるものだった。
「少しずつ相手のことを知っていくんです。相手の好き嫌いを知るとか、一緒にいる時間を増やすとか――」
「この一年共に過ごし君を知った。共に座学も訓練も受けた。私と違い、筋骨逞しく武芸の勘がよい反面、興味のない話を一つも覚えない。好色家が玉に瑕。これで十分ではないのか?」
「十分?」
たったの一年で? セルゲイはかちんときた瞬間に吠えていた。
「それで俺のすべてを知ったつもりかよ? 一緒に酒も飲んだことないのに?」
一つ本音を言ってしまうともう歯止めがきかなかった。
「それは殿下の言い分だろ。さっきからずっと対話のふりして俺の話は全然聞いてないだろ。友だちだと思うなら相手の話は聞けよ! そんでお互いの言い分を擦り合わせるとかするもんなの! それでよく恋人ができたよなァ! ッカーッ! 信じらんねえ!」
叫んだ少年にゼ・メール街道を行く人々の注目が集まる。
だがそれすらも気にならない。
「対話の、ふり……」
「そう。望む答えが出るまで意見を押し付けてさ。人を自分の思い通りにしたいんだろうけどそういうのすぐ見透かされるからな」
「君の、言い分……」
きょとんと、あるいは呆然とする王子の顔にセルゲイは我に返った。
苛立ちに任せて失礼を言葉にしてぶつけてしまった。だが今さら引き下がることもできない。
「……そう。別に全部肯定することもねえけど、ちょっとは聞いてくれって……そういう話」
頑張って言葉を濁したが反対に冷汗が滝のように溢れる。やばい。
この国で二番目に偉い少年に首を刎ねろと言われれば誰も反対しない。
しかし王子は真顔で考え込んだまま黙りこくってしまった。
「そ、そういえばさ、なんて呼べばいい? 殿下の名前は国中のみんなが知ってるぜ。〈獅子王の再来〉グラスタンってな」
気まずさに舌が滑る。
「……君にはそう呼ばれたくない」
生まれついた環境の重圧によってすっかり猫背が板についていることはセルゲイだけが知っている。
しゃんとすれば雰囲気が出るのにもったいないと常々思っていたのだ。
「そうだ。私のことはグレイズ――グレイズ・ルスランと呼んで欲しい」
ふうん、とセルゲイは何の気なしに受け止めた。
悪くない。彼の本名に似ているしそれでいてどこかで聞いたことのある音列だ。しばらくして思い当たる。
「ルスランって『ルスランとリュドミラ』の?」
「知っているのか!」
王子――グレイズの顔が目に見えて明るくなった。
「なんか子どものとき読んだなーって。話は覚えてないけど」
「単純な話だ。勇敢な騎士ルスランが悪の魔術師に攫われた婚約者リュドミラ姫を助けに冒険し、困難を乗り越えた二人は結ばれる。原作はオペラだが、本で読むのもいい」
「へ、へえ……」
聞いたことのある筋書にどきりとする。
よりによって、息子の愛読書をなぞらえるとは。
勘づかれやしないだろうな。緊張するセルゲイの横でグラスタンは蕩々と続けている。
「ベルイエンの私の部屋に蔵書がある。そうだ。よければ今夜貸そう」
「や、それは今度――」
「清廉潔白な正義の騎士の物語だ。叙任、ひいては禊の前に読むに相応しいと思うけれども。ルスランは途中、同じく姫を愛する別の騎士に裏切られたり、美女に魅了されることもあるが、いつでも自身の正義と誠実を貫く。その真っ直ぐさに白魔術師が、そして天が彼を味方する」
王子は立て板に水、ものすごい勢いで語りつくすと、熱い吐息を深呼吸で冷やし、セルゲイを眩しそうに見上げた。
「……憧れなんだ」
言葉通りの純粋な憧れが、瞳をきらきらと潮のように輝かせている。とても直視できない。
「彼のようになれたらと、ずっと願っている」
「……なれるんじゃねえの、いつか」
視線を逃がしたセルゲイだったが王子が空気を食むのは見えていた。
「セルゲイ、前……!」
グレイズが突然、さっと背中に隠れた。
不思議に思って見回すと、軋む跳ね橋はいつの間にか後方に去り、代わりに目の前に城門があった。
話し込んでいるうちにじりじりと列は進んでいて、セルゲイたちの番が来ていた。
彼が入場を待つ人々の列の先頭に立つと、真っ白なお仕着せの神聖騎士が槍を交差させた。
「名を名乗れ。用件を述べよ。荷を見せよ」
「はっ」
セルゲイは怖じ気づいて縮こまるグレイズを引っ張り隣に並ばせてから剣を胸に掲げて顎をそびやかした。
「シュタヒェル騎士団所属、ドーガス卿が従騎士セルゲイ・アルバトロス、同じくグレイズ・ルスラン。ヴァニアス王国第一王女にして、聖教スィエルの宗主にあらせられる、清らなる〈ヴァニアスの神子〉ミゼリア・ミュデリア殿下の名の下に呼び招かれ、王都ファロイスより急ぎ馳せ参上いたした!」
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これからもどうぞよろしくお願いいたします。
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