5、叙任前夜(1)
「ふう」
ときは過ぎ、ヴァニアス暦九八四年。
〈雪解けの知らせ〉が終わる〈白羊の月〉一日。
春一番の日が昇る前に王都ファロイスを出発し、ゼ・メール街道を東へと進んできた従騎士セルゲイ・アルバトロスは、目的地に着くと張り詰めた太股に気合いを入れ直し馬上からひらりと降りた。
一年ぶりの聖都ピュハルタは十八歳になったセルゲイには少し小さく見えた。
苦々しい思い出を上書きしたくて思わず深呼吸をする。
それは、これから始まる予定の茶番劇への溜め息に変わった。
街路樹――プラタナスの頭から生い茂る葉は、たっぷりとしていて、美女のけぶるようなソバージュを思わせるし、シラカバの凛とした清潔感溢れる立ち姿は尼僧のよう。おいでおいでと手招きする柳の流麗さは白魚がごとく、まさに先日夜伽をしてくれた若いイーシアの女のなめらかな手指を想起させる。
セルゲイはそんな彼らの間を渡りゆく薫風を嗅ぎ、そこに自らを重ねた。
気まぐれに女の髪を匂っては首筋にくちづけ、耳に熱い甘言をささやいては明日の他人たる。
本物の恋ができればと一夜のアバンチュールに心身を焦がすこともあるが、それはそれ、一夜限りで終わる関係の気楽さばかりが先立つ。
深くは踏み込めない。
それに恋愛の果てに所帯を持つなど、責任が重すぎる。
一瞬の恍惚に見合わない。
また、ため息が落ちた。
栗毛の愛馬チェスナの首筋を労いに撫でてやると彼女は誇らしげに喉を鳴らした。
一緒になって深呼吸をすると春らしい青草の瑞々しい匂いが胸いっぱいに満ちた。
ぶん、と耳のすぐ近くを蜂が通り過ぎていった。
飛び去ったほうを見れば夏へ向けて背丈をぐんぐん伸ばしている草の合間に赤、白、黄など色とりどりの小花が咲いていてその間を蜂たちが嬉しそうに行き交っている。
細い足にくっついている花粉の塊が蜜蜂の証明だ。
黄金色の甘い蜜を想像して、少年はにっこりした。
のどかな光景、花の香りを纏った風、それを喜ぶ人間。
明るい色彩、春めいた淡い期待感があたりに満ちている。
刀礼を翌日に控えた少年がやってきたのは小姓時代から慣れ親しんだ聖都ピュハルタだ。
白亜の城壁街に守られたベルイエン離宮の中心には国教スィエルの聖地〈水の祭壇〉があり、そこからこんこんと湧き出る清水の流れを壕に流し込んでいる。
聖地巡礼か、あるいは今日の宿を得るためか。
入場を待つ人々の列はいつでも跳ね橋から城門まで伸びて聖都のただ一つの入り口まで続いている。
「今日はさすがに並ばないとな」
かつては神聖騎士団のお仕着せとマント、そして金色の拍車を身につけた先輩騎士ドーガスを入場証代わりに、別門から入場していた。
その際、騎士は馬を下りる必要も無い。
だが今日は勝手が違うので門から少し距離を取ってゼ・メール街道の上で馬から降りた。
愛馬チェスナの綱を引いて歩く。
「セ、セルゲイ」
セルゲイは、はっとして振り向いた。
そこで連れ合いの少年が白馬の上でもたついていた。
具体的にはひょろ長い足をうまく蹴り上げられずにいる。
「嘘だろ」
セルゲイの首筋を汗が滑り落ちていった。
出発する時、乗れると言ったのを信じたのにあまりにも下手すぎる。
汗ばむような春の陽気に似合わない陰気な色をしたマントが全ての動きを阻害しているのかもしれない。それにしてもだ。
「グ……殿下! 体重を片脚にぐっと乗せて――」
「いいから、早く……!」
セルゲイが慌てて手伝い、四苦八苦しながら下ろしてやった瞬間、少年のフードはすっかり脱げ落ちてしまった。
艶めく黒髪と海色の瞳が陽の下にさらされる。
それは彼をヴァニアス王国で唯一無二の存在にしてしまった色彩だった。
「まずい!」
セルゲイはぎょっとして少年のフードを被せ直し、きょろきょろとあたりを窺った。
グラスタン・ウィスプ・スノーブラッド・ヴァニアス――セルゲイと同じく齢十八を数えるこの少年こそ、シュタヒェル騎士が命に代えても守らねばならない世継ぎの王子であった。
あの日からセルゲイは彼だけの従騎士だった。
明日叙任されれば晴れて王子近衛騎士となる。
グラスタン王子も従騎士の腕の中で筋張った身体をこれ以上ないほど固まらせている。
ばれたか? 早鐘のような心臓の音が麗らかな春の日を浸食する。
しかしセルゲイと目が合ったゼ・メール街道の人々はくすりと微笑んだだけだった。
「ところで今朝の新聞、読んだ? またドラゴン騒ぎですって」
「子どもの投稿でしょう? どうせ大きな鳥でも見たんでしょうよ」
そしてこんなふうにそれぞれの連れ合いとの世間話に戻り街道を行った。
「ふう……!」
腹の底から出た安堵のため息が喉を鳴らした。
嫌な汗がもう一つ二つ首筋を落ちていく。
二人の女性には友人同士がふざけているように見えていたのならそれに超したことはない。
「すまない、セルゲイ」
黒々とした太い眉を傾けた王子はフードの下からハイバリトンの上澄みと申し訳なさそうな視線を従騎士に投げてきた。
それに苦笑いで答える。
「馬に乗れるっておっしゃってたじゃないですか。昔、独りでピュハルタに来たことがあるって。そのとき乘ったって」
そう。グラスタン王子はかつて王都ファロイスの王城ケルツェルから家出をしたことがあるという。
それは奇しくも十六歳の成人を迎えたその夜だったそうだ。
そしてそのまま叔母である神子姫に滞在を許され、御前試合当日までの一年間ベルイエン離宮にて静養していた。
家出の理由はまだ教えてもらっていないがこれがきっかけで良縁を得たことだけは聞いた。
王子は海色の瞳を泳がせた。
「あのときは無我夢中で。乗ることは出来る。だが、降りるのはどうしても苦手で……」
「あー……」
それは乘れるって言わねえんだよな。
セルゲイが飲み込んだ本音をどうやって知ったのか、王子はしょぼくれかえった。
「何から何まで迷惑をかけて。私はいつも駄目だな……」
少年のくちびるが情けなく曲げられて形のよさを台無しにしている。
「決めつけると本当にダメになりますってば」
王子のしょんぼりと余計に縮こまった背中をセルゲイは軽く叩いて励ました。
その拍子に背筋がピンと伸びると身長もぐんと伸びた気がした。
あの日――セルゲイを迎えに来た時の凛然とした気迫は演技だったのだろうか。
「誰でも苦手なものはあります。俺が悪かったです。こういうのは俺がちゃんとしておくべきだったんです。でも、殿下もできないことはできないって、なんでも最初に言っておいてくださいよ。そうしてもらわないと俺、カバーできないからさ。――あっ」
セルゲイは回りすぎた舌をくちびるごと右手の中に閉じ込めた。
それは王子も同様だったらしい。
彼は瞳を丸めたあと深呼吸を繰り返しくちびるを舐めたと思いきや、突然セルゲイの行く手を塞いだ。
「セルゲイ、ずっと言おうと思っていた。遠慮はいらない。騎士団の気の置けない友人にするようにしてほしい。私たちは同い年で、そして〈盾仲間〉になる間柄だ」
正直面食らった。
いや、合点がいったというのが正確だろう。
この一年、何かにつけて物言いたげな視線を送ってきたり二人きりになろうとしているのは感じていた。
そのまなざしがあまりに熱くて、彼が同性愛者ではないかと疑ったこともある。
それが友人宣言とは。
少しほっとすると同時に、現実を知ってくれとも思う。
同い年で〈盾仲間〉、王子近衛従騎士。
確かにそれは周知の事実ではあるが、かといって突然友だちになるわけではない。
ましてや王太子と商家の従騎士だ。
ブーツに同じ色の拍車を付け同じ騎士団の鎧を纏えども、二人の身分には超えてはいけない一線がある。
それぐらいセルゲイにもわかる。
小姓・従騎士の同期たちに尋ねてみても口を揃えて言うだろう。
礼を失すれば首が飛ぶと。
あくまで契約上の主従関係に過ぎないのにこのうら若き貴人は何か勘違いをしているらしい。
セルゲイは軽く咳ばらいをした。
それだって時間稼ぎにはならないけれども。
「殿下、それは命令ですか?」
「友情は命令で持つものなのか?」
「そうじゃありませんけど、そうしてもらわないと俺の首が飛びます」
「命令がなければ、友にはなれぬと?」
「いやあ……」
二人きりになったと思えば随分ぐいぐい来るな。しかも返しにくい事ばかり言う。
その割にはもしょもしょといじけた調子なものだから気を遣う。
「ご命令いただくと、俺が楽っていうか――」
「忠信を主とし、己に如かざるものを友とすることなかれ。セルゲイ、私より強く高潔な心ある君とならば友になれると思うのだ」
悲しいかな、この言い方がすでに強要であると彼は理解していないらしい。
「……しかし心までは強制したくない。君が嫌ならば、遠慮なく断ってくれていい」
セルゲイが答えあぐねていると王子はすぐに拗ねた。そうはいかねえだろって。
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