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【完結】薔薇の王子、幸運の翼  作者: 黒井ここあ
第三章 勇気、凛々として

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22、命懸けの航海(2)

 あれからどれくらい経っただろう。

 霧が呼び寄せた嵐は、〈海豹女(セルキィ)〉号をひっくり返そうと躍起になっている。

 セルゲイは指揮をとると言うド素人のグレイズを船尾楼に押し込んだ。

 そしてたった一人、外で舵をとるユラムの元に急いだ。

 海についてはセルゲイも素人だ。

 けれどどうしてだろう。放ってはおけなかった。


「馬鹿野郎、死にてえのか!」


 と、叫んだ女海賊の頭に波が降り注ぐ。

 その瞬間、セルゲイは踵ごと滑った彼女を後ろから抱きかかえた。

 一緒に操舵輪を握るとユラムが吠えた。


「オレが女だからって――!」


「関係ねえ!」


 また高波が襲ってきた。二人とも濡れ鼠だ。

 セルゲイは犬よろしく首を振って顔のしずくを払うと詰めていた息を解放した。


「お前が軽そうだから押さえててやる! それだけだ!」


 それからは無我夢中でユラムを支えていて記憶が曖昧だ。

 急に暴れ出した真っ黒な高波に何度死を覚悟したかわからない。

 荒波に揉まれているうちに雷撃が轟き降り注ぎ、マストの天辺を直撃した。

 その一本に入った大きな亀裂を炎の舌が舐めている。


「駄目だ! このままじゃ!」


 火のついた〈海豹女(セルキィ)〉号に、ユラムが目に見えて焦っている。

 何を思ったか、彼女は操舵輪から手を離してセルゲイに首を回した。


「ここを頼めるか!」


「ハア? 無理に決まってるだろ!」


「今、あれを消せるのはオレだけなんだ!」


 まるでわがままを言う子どものようにユラムはセルゲイの鷲鼻に向かって噛みつく。


「ううん。あたしがいく」


 と、その時、急に少女の声が聞こえて、セルゲイは身体ごと驚いた。


「アン! お前、いつの間に――!」


 彼女はしっかりと戸締まりした船尾楼の中にいるはずだった。

 それなのに一瞬で現れた。

 足音すら聞こえなかったのはいったいどういうわけだろう。


「けど――」


「知ってるでしょ、あたしならだいじょーぶ。ばれないって。ユラムは舵取りだよ。ド素人の男に任せてらんないじゃん?」


 嵐の中にもかかわらず、彼女はまるで飛ぶように濡れた甲板を駆けていった。

 セルゲイは顎を上げた。少し波は落ち着いている。今なら大丈夫かもしれない。


「悪い、ユラム。行ってくる!」


「だめだ、セルゲイ!」


 騎士は少女の背中を追った。

 彼女はまだ使えるロープを伝って、マストの火のついた部分を目指している。

 セルゲイが追いついて見上げた時には、彼女はすでに消火活動を終えていた。

 少女の手から生まれた水の流れが、炎を包みこみ、すっかり小さくしてしまった。

 アンは水の魔法使いだったらしい。先ほどの口ぶりからすると、ユラムもそうなのだろう。

 ホント、頼りがいのある女たちだよ。

 騎士が安堵に一息ついたその瞬間、不意に船体が大きく傾いた。


「ひゃ……!」


 か細い悲鳴が頭上からした。

 すぐに顔を上げると、バランスを崩したアンが片手でロープにぶら下がっていた。


「アン!」


 ロープごとゆらゆら揺れる少女に向かって、波は容赦なく降り注ぐ。

 だらりとぶら下がったままの彼女が手をすべらせて落ちるのは時間の問題だろう。

 セルゲイは腰とマストの付け根にそれぞれロープを結びきった。

 そして、左右に大きく揺れる彼女の下へ思い切って駆けだした。

 しかし、踵が滑ってうまく踏ん張れない。

 甲板に叩きつけられる恐れもあり、飛び降りろとも言えない。

 遠くからでもアンの手から力が抜けていくのが見て取れる。


「クソ……!」


「ちょ、ちょっと馬鹿、何やってんのよ!」


「今、助けに行く!」


 セルゲイは急ぎ靴を脱ぎ捨て、裸足で折れたマストを登った。

 船体が揺れて思うように登れない。

 手に木片か何かが刺さってちくちくと疼くが、気にしている場合ではない。

 それに波を被れば滑り落とされてしまう。

 一進一退、ようやくアンに繋がるロープにたどり着けた。

 お互いに腕を伸ばせば届きそうだ。しかし高波のせいでうまく手を繋げない。


「アン! 手を!」


「いいって、セルゲイ! あたしは平気なの!」


「諦めるなよ、馬鹿!」


 その時、一際大きな波が二人に襲いかかった。


「アン!」


 セルゲイは波にのまれ、マストから洗い流されてしまった。水も結構飲んだ。

 だが、運良く手すりに背中がぶつかって難を逃れた。

 目前では、アンがぶら下がっていたロープだけがゆらゆらと揺れている。

 間に合わなかった。助けられなかった。


「アン!」


 セルゲイは訳もわからず叫んだ。吠えた。もはや意味は無かった。


「ふぃー」


 と、すぐ傍で少女の声が聞こえた。

 波に流されたはずのアンが、セルゲイの目の前で手を差し伸べてくれていた。


「靴、履いてないと危ないよ?」


 そう言う通り、彼女の手にはセルゲイが先ほど脱ぎ捨てた靴があった。

 頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れなのに、喉はからからで声が出ない。

 アンはさきほど大波にさらわれ、海の中に飲み込まれたはずだった。

 いくら得意だとしても、泳いで戻るには早すぎる。


「な、なんで……?」


「人魚だから。……なんてね」


 アンはそう言うと、イヤリングに絡んだ髪をすっと引き抜いた。


「女の子には秘密がたくさんあるのよ」


 塗れた髪から飛び出した耳の先が、少し尖っているように見えた。


「でも、ありがと。……ちょっと嬉しかった」


 騎士がぽかんとしていると、少女のくちづけが頬に、そして雲間から光が差し込んできた。

 光は空と海とを濁らせていた雲をみるみるうちに追い払う。

 すぐに、水のちゃぷちゃぷと打ち付ける音が穏やかになった。

 世界を照らし出すまばゆい太陽が、嵐が濁らせていた色彩に鮮やかさを取り戻す。

 その中で、光そのもののように白く浮かび上がる島があった。

 日差しにいざなわれて、甲板にまばらに人が出てくる。

 その中にあって、グレイズの黒髪はもっとも目立っていた。


「着いたぞ! オパーラだ!」


 海賊船長の声に、乗組員から明るい歓声が上がった。

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