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薔薇の王子、幸運の翼  作者: 黒井ここあ
第二章 海豹女たち

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14、エスメラルダの遍歴学生(3)


 まんまと逃げおおせた三人は、青年が泊まっているパブ兼旅宿の〈金の林檎(ウーラ・オルガ)〉亭に転がり込んでいた。昼営業が終わった休み時間には鍵を持っている人間が裏口からしか入れないのだという。薄暗いパブの半地下で、飲み物を少しずつもらった代わりに、カウンターにチップを置いて机を囲んだ。


「助かったー! ありがとう! 僕はレイフ」


 と、青年は底抜けに明るく笑った。


「レイフ・ヴィータサロ。ここから東のヴァニアス王国をさらに越えた先にある、ロフケシア王国から来た。いわゆる、遍歴学生さ」


「そんなに遠くからなぜ――?」


 グレイズが口を開くよりも、レイフが続けるのが早かった。


「いやあ、研究費が底を尽きて! そろそろ論文のひとつも書かないと、図書館を追い出されちゃうからさ!」


 彼はゴーグルをひと思いに首まで落とし髪と同じ灰色の瞳でグレイズとセルゲイを直視した。

 溌剌としていて若い印象だが、くっきりと見える笑い皺と澄んだ瞳は彼の人懐こさと気立てのよさを感じさせる。十とは行かぬまでも、おそらく年上に違いなかった。


「俺はセルゲイ。こっちはグレイズ」


「どもねー。どもども」


 三人はそれぞれまっすぐに目を合わせながら、ぎゅっと音が鳴るほどしっかりと握手を交わしあった。


「それで、二人もドラゴンを探してるわけ。奇遇だなぁ。でも調査は難航した。そうだろ?」


 レイフはそう言いながら、鞄の中から分厚いノートブックを取り出した。

 どん、と置かれた拍子に、一瞬机が傾いたので、グレイズは飲み物の瓶を慌てて掴んだ。


「なぜ、わかるんだ?」


「わかるさ」


 グレイズがたまらず食いつくと、レイフは顎をそびやかした。


「僕も苦労してるから。きっと、箝口令かんこうれいがしかれてるんだ」


「その根拠は?」


「いいねえ、グレイズ。君も遍歴学生? 素質あるよ」


 畳みかけるように問うのは本来失礼なことだ。

 それなのにレイフは、瞳を愉快そうに丸めて顔と声を明るくした。


「結論はもう言った。論証をしよう。ここペローラ諸島には、ドラゴンの伝説がたくさんある。僕は〈ビュロウ〉――ドラゴンの巣があるか、そしてまだ機能しているかどうかを調べに来たのさ。ほとんど趣味のようなものだよ。けどまさか、このタイミングで本物の噂を聞くなんて思わなかったなあ! 僕も君たちと同じく、地道に聞き取り調査を始めようとした。けど商人もだめ、住民もだめ、船乗りもだめ。そこで僕は、ドラゴンについて語れば厄災――悪いことが起こると信じた住民たちが自発的に箝口令をしいたんじゃないか、という仮説を立てた」


 ノートを開いたレイフは、次々に単語を指さしながら流暢に説明してくれる。


「悪いことその一。信仰的な厄災だ。名を口にすれば召喚すると信じる人もいるからね。悪いことその二。人為的な厄災だ。これは実験をすれば妥当性がすぐわかるだろうと思った」


「だから、あの酒場でわざとドラゴンの話を?」


 理解したグレイズが口を挟み、追いついていないセルゲイの瞳がぱちくりとまたたいた。


「正解」


 レイフが小気味よく指を鳴らし肯定してくれたので、グレイズは少し嬉しくなった。


「誰かに脅迫されているとすれば、その誰かが躍り出てくれるってわけ。で、大物が釣れた」


 彼の選ぶ言葉は易しく簡潔、それでいて語りはリズム感よく、耳にすっと入ってくる。

 彼が家庭教師だったら、どんなに楽しいだろうか。


「どうせ、あの大男が海賊だってオチなんだろ?」


 頬杖をつくセルゲイがつまらなそうに言うのを、レイフはまたも喜んでみせた。


「そう! 結局みんな、ペローラの荒くれ者ども、ルジアダズ海賊団を恐れていたみたいだ。理由は知らないけど、あいつらもドラゴンを探してるんだろうね」


 なるほど。ラ・ウィーマ村を襲った海賊たちの証言とも一致する。グレイズの頭の中で点と点が少しずつ結ばれていく。同時に疑念もよぎる。海賊たちはどうやってドラゴンの来訪をしったのだろうか。


「で、あいつが親玉ボスか!」


「違う」


 瞳を見開き身を乗り出したセルゲイに、レイフは首を振った。


「あいつは下っ端だね、予想だけど。仮に大親玉ヴィルコ・オルノスだったらこの街はとっくに海賊大戦争で大荒れじゃないかな」


 戦争。グレイズは恐ろしい想像をして身震いした。サフィーラ島を襲った悪意の炎がエスメラルダの商店街にも放たれる幻だ。

 この街は確かに雑多で埃っぽいけれど、それと同じく人々もあちこちで活気に溢れている。

 ただ領土や名誉を求めるがために、炎で人の命や文化を奪うことなど許されない。

 グレイズの心に滲んだ恐れが、拳の握る強さとともに熱く燃える何かへと変貌する目前で、レイフは続けている。


「ルジアダズ海賊団の男たちはオリーブと船と女神っていう、共通の刺青をしている。けど、男の刺青が違った。あの男は、ルジアダズの刺青の上から、鯱と剣の刺青をしなおしていた。クリフォード派か、ユラム派か、どっちかだろうな。今はきな臭いしね」


 と、レイフがノートの違うページをめくって開いて見せてきたのを、グレイズとセルゲイは一緒になって覗き込んだ。船の周りをオリーブの葉が囲み、それに向かって女神が息を吹きかけ、見下ろしている図案だ。オリーブの葉は女神の髪でもある。これがルジアダズ海賊団の印らしい。


「鯱か」


「鯱なあ」


 グレイズとセルゲイは同時に呟き、顔を見合わせた。


「以上!」


 と、レイフは景気よくノートを閉じた。


「ルジアダズの、クリフォード、ユラム……」


 聞き覚えがある名だ。どこで聞いたのだろう。

 グレイズが訝っていると、隣で椅子が、ぎいと悲鳴をあげた。

 セルゲイが細い椅子の細い足を重心に、揺り椅子よろしく、船を漕ぎだしたのだ。

 どうやら集中力が切れたらしい。


「海賊とドラゴンかァ。ドラゴンの巣の財宝でも狙ってんのか?」


「大方そうじゃない? 本当にあるかどうかは見てみなきゃだけど」


「お宝かァ。俺は興味ねえな」


「そう? 歴史的に貴重な美術品があるかもよ。調べてみたいけどな。〈薔薇の遺物〉レリック・オブ・ローズなんかあった日にゃ大事件だよ」


 セルゲイが、がばりと大顎を落としてあくびをすると、レイフにもふわりと移った。

 どうやら、レイフ・ヴィータサロという男は善良な人間のようだ。

 出会ったばかりの旅人に、余すところなく全てを語ってくれたし、あくびさえして見せた。

 微笑みの仮面しか許されない王宮で育ったグレイズには、わかる。

 のびのびと自適に生きるレイフ、彼に裏表がないことは。

 レイフにならば、見せても大丈夫そうだ。

 グレイズは、〈ウィスプ〉のペンダントをたぐり寄せて取り出し、机の上に置いた。


「レイフ、君はこれが何かわかるか?」


「んっ? おおお!」


 遍歴学生は瞳を輝かせてペンダントを手に取った。


「グレイズ! いいのかよ」


 慌てる騎士に、王太子は頷いた。


「〈ウィスプ〉じゃないか! 本物? これをどこで?」


 その手にはいつの間にかルーペが握られている。


「君の叡智と勇気を見込んだ」


***


 グレイズが己の身分と花嫁の偽装誘拐から始まった数奇な冒険について説明すると、レイフはくちびるをぎゅっとすぼめ瞳を忙しなくしばたたかせた。

 彼なりに驚いているらしかった。


「新聞で読んだよ! あの騒ぎ本当だったんだ!」


「ああ。だが私が王子であることは聞かなかったことに」


「わかった。そこは信じないでおく」


 遍歴学生はその表情のまま小刻みに頷いてくれた。

 しかし、彼の瞳の煌めきはまったく損なわれるどころか増しに増しているように見えた。


「なるほど。星のかけら、ないしドラゴンの鱗……。そのどちらでもありそうだ。とにかく、本物をこんな間近に見られるなんて感激だよ! それに加えて、君の歩む道はこれからの未来、歴史の一ページになる――かもしれない――わけだ。ぞくぞくするね、興味深い! しかし魔法薬でドラゴンの追跡なんて聞いたことがないな。〈ビュロウ〉への道しるべになるとはどこかで読んだことはあったけれど。その魔術師くんを問い詰めたいな」


 興奮に任せて舌を回すレイフに主君と従者はやれやれと目を合わせた。

 また癖の強い知人ができたものだ。

 世界の広さを痛感する。

 しかし、こんなふうに屈託なく話してくれる相手が増えるのはとても嬉しいものだ。

 ヴァニアス王国にいたころの自分にはとても想像がつかない。

 友人とはかくして増えていくものなのだろう。

 いや。グレイズは浮き足立つ気持ちをぎゅうっと抑えつけた。

 自分だけが舞い上がり友だちだと思えども、相手がそう思ってくれるかは定かではない。


「セルゲイ。相談がある」


「お?」


 騎士の緑の瞳がぐるりと回された。

 瞳の中で真昼の星が暖かく輝いた気がした。


「ああ。レイフなら、助けてくれそうだよな。誘ってみるか?」


 わかってくれた。

 言い知れぬ期待に胸が温まる。

 三人がそれぞれに息をついた時、パブのドアベルが涼しい音を立てた。

 生ぬるい外気と共に女が二人連れだって入ってきた。 


「予約と言っても雑魚寝だよ。ベッドの保証はできやしない」


「構いません。我が君は誰よりも早くお休みになられますので」


 凛然とした旅のドレスの女に見覚えがある。驚くことに、片方は知人だった。


「イーリス殿!」


 王子より先に騎士が声を上げた。

 逆光で見えなかったが、セルゲイの明るい声に、侍女は瞳を丸めたに違いなかった。

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