14、エスメラルダの遍歴学生(2)
ペローラ諸島で三本の指に入る大きな街という聞こえの通り、ブロシャデイラの街は様々な人間で犇めいていた。行き交う人々の肌、瞳、装いの色、纏う香り、どれをとっても同じものはない。物珍しさに足が止まる、止まる。浅黒い肌の上に乗った太い眉とぎょろりとした両目がくっつきそうなほど近い、ヴァニアス人に比べると四角い顔立ちをしているのが現地の人々なのだろう。グレイズは、彼らの黒々とした髪に親近感を覚えた。
家々の瓦は明るいオレンジ色をしていて、その下の窓からは物干し竿が隣の建物まで続いている。無数に張られた物干し竿にはもちろん洗い物が干されていて、風が吹くたびにはためく。
大通りには、露天が立ち並び、香水瓶やカトラリーなどの細かいものから、手織りの絨毯のような大きなものまで並べられている。
まるでおもちゃ箱のように色とりどりで雑多な様子は、聖都ピュハルタの直線的で白く生真面目な印象とは正反対だ。
つんと鼻をつく匂いに覚えがあって路地裏を覗きみると、何かの煙が充満していてむせた。咳き込みついでにしゃがみこむと、原因がわかった。日陰にラグを敷いてたむろした人々が水たばこに興じていたのだ。寝起きのようなどろりとした視線を一身に浴びたグレイズがたまらず退散すると、後ろに控えていたセルゲイに涙を流して笑われた。
その中に時折、小柄で赤毛の娘を見かけると自然と目で追ってしまった。だが、ことごとくはずれで、色が似ているだけだった。
マルーはここにいない。そう自分に言い聞かせることで、より一層切なくなった。
いや、まだそうと決まったわけでは。グレイズはこぶしを握り締めた。
何処にいても迎えに来てくれと言われた。彼女の願いを叶え、再びこの腕に抱きたい。
きょろきょろしていると、何度も人にぶつかりそうになり、そのたびにセルゲイに腕を引っ張られた。
「すまな……」
セルゲイの眉が一瞬で寄ったのを認めたグレイズは、詫びの言葉を寸前で飲み込んだ。
「……ありがとう」
騎士は誇らしげに口の端を持ち上げてくれた。
「いいってことよ」
確かに、謝るよりはずっと気分がいいものだと、グレイズは思った。
しかも、言った自分の心がほわりと温まる。なんとも不思議な感覚だ。
「んう、おほん」
と、セルゲイが急に、わざとらしい咳払いをした。
「ちゃあんと、ン前を見て、ンお歩きになってください。殿下」
声が鼻に掛かった、抑揚が甚だしい喋りは、とある大臣の真似だった。
しかも、セルゲイはさらに誇張して、けだるげな表情までも真似して見せてきた。
それがおかしくておかしくて、王子はたまらず吹き出した。
「それぐらいできる!」
二人が腹を震わせた声は、ブロシャデイラの喧噪によく馴染んだ。
***
酸っぱくてしょっぱく、甘くて辛い不思議な味の赤いソースがかかった、平たく水気の無いパンのようなもので軽く腹を満たしてから、二人はようやく聞き取り調査を始めた。
そのはずだったが、商売人を中心に十数人に訪ね歩いたところで、二人ともどちらともなくバザールの端、地べたへ腰を下ろした。
はしたなさに良心が咎めたけれど、あちらこちらで見受けられる光景なので、グレイズもそれに倣った。そこは商人のテントで日陰ができていて、涼しい。
「げぇーっぷ」
瓶入りの炭酸水をあおったセルゲイが、わざとらしくおくびを出した。
これには反射的に顔をしかめてしまった。
「止めたまえ」
「ゲップの一つで済むなら安いだろ! なんだよ。揃いも揃って無視しやがって!」
続けてもうひとつ、大きなおくびが鳴る。
「無視ではない。はぐらかされたんだ」
「どっちでも同じだよ!」
セルゲイは両脚を放り投げた。
ふてくされる彼の気持ちもわかる。
ブロシャデイラの人間がよそ者をとことん冷遇するならば、それも致し方なしとまだ割り切れたものだ。しかし話しかけた商売人たちは、ペローラ人だろうとディアマンテ人――グレイズたちヴァニアスの人々を彼らはそう呼んだ――だろうと金さえ払えば商品を売ってくれる、とても気風のよい人間たちなのだ。
ではと、その流れでドラゴンのことを訪ねると、途端に笑顔を凍らせて同じことを言う。
「『知りませんねえ。お伽話でしょう』だとよ!」
サイダーを最後の一滴まで舐めて飲み干したセルゲイは自分の両脚を使って頬杖をついた。
「サフィーラやトルパツィオと違って、この街の人々は信心深くはないのだろう」
グレイズがやんわりとかばおうとも、騎士は口を曲げたままだ。
「でも、あんな巨大なもんが飛んでたら、さすがに気づくって!」
「眠っていたのかも」
「こんな繁華街だぞ?」
「皆、夜には眠るだろう?」
「あのなぁ……」
きょとんと首を傾けたグレイズの顔をセルゲイが怪訝そうに睨んできた。
心当たりが無いのでただただ見つめ返していると、そのうち騎士は大きなため息をついて空を仰いだ。
「きゃあ!」
と、その時、女の悲鳴が上がった。
二人が腰掛けているところからほど近い建物の扉が乱暴に開け放たれた。
すぐにセルゲイが庇ってくれた背後から覗き込むと、扉の奥から男同士が何やら言い合いながら出てくるのが見えた。
「お前か、ドラゴンを見たって奴は?」
逞しすぎるあまり、シルエットが四角く見える中年の男が、灰色の髪の痩せぎすな男の首根っこを掴んでいる。彼の腕には刺青が重なっていて、女の顔だか魚だか、もはや何の模様がえがかれているのかわからない。体つきと同じく四角い顔は真っ赤で深酒が窺えた。
「言え! ドラゴンはどこだ!」
「わわわ。どうどう」
赤ら顔の大男が、ものすごい剣幕で痩せた白髪の男に詰め寄っている。
グレイズはたまらず身体をすくませた。
「セルゲイ!」
「ああ」
グレイズの声に、騎士は鋭く頷いた。しかし彼は動かない。機会を窺っているのだ。
ゴーグルを頭に載せた痩せっぽちの男は、激しい追求にもへらへらしている。
「だから、見てはいないって。探してる。あんたはどう?」
灰色の髪をした彼の声が若くて、グレイズは驚いた。
その髪の色から、てっきり壮年か老人かと思っていたからだ。
「お前、ヴァン語がわかんねえのか! ドラゴンはどこにいるって聞いてんだ!」
「いるとすれば、この島の〈ビュロウ〉じゃない?」
「とぼけるな!」
灰色の青年は、圧倒的な体格差のある相手にまったくひるまなければ、筋肉男の唾が顔面にかかってさえ動じない。ものすごい胆力である。
グレイズにはとても無理だ。ハラハラしながら見守ることしかできない。
「とぼけて何になるのさ。そっちこそ〈ビュロウ〉が何でどこにあるのかも知らないでドラゴンを探しているのかい? じゃあ用無しだなぁ」
世間知らずを自負するグレイズでも、これはさすがに煽りすぎだと思った。
「さっきから訳のわからないことを! 言いたくさせてやる……!」
全身の筋肉に血管を浮かせた男は言葉ではなく自らの拳を大きく振りかぶろうとした。
「うおっ!」
すると突然、筋肉男がぐらりとバランスを崩してその場に尻餅をついた。
グレイズが、一人で勝手に転んだ男に呆気にとられていると、王子の耳にカランと涼しい音が聞こえた。見れば道に、サイダーの瓶が転がっている。
「おい!」
グレイズが感心した傍から、セルゲイが青年の灰色のお下げを引っ張った。
「行くぞ、グレイズ! お前もこっちこい!」
セルゲイに腕をとられたグレイズも一緒になって、筋肉男と彼の罵声から遠ざかるために駆けだした。




