14、エスメラルダの遍歴学生(1)
〈白羊の月〉十五日。
グレイズは、太陽が顔を見せる前に従者たちに起こされて、夜明け前の白んだ空の下トルパツィオ島を出発した。
今日は風だけでなく波も味方してくれていてヨットが信じられない速さで進む。
加護を授ける風の精霊ヴィンドゥールが、あるいは白波を漕ぐ水の精霊ヴァトゥンが見えるのでは、と後方を振り返ってみたほどだ。
しかし風はどこまでも透明で水はどこまでも青かった。
彼らは気を許した者にしか姿を見せないのかもしれない。
「きっと暖流に乗れたんだ!」
〈赤き薔薇〉号の舵手セルゲイが歓声を上げ、振り返りざまに楽しそうに叫ぶ。
彼の頭上でウミネコもやいのやいのと競いあうように鳴き、天日にさらされた甲板に小さな影を作っては去って行く。
ファーラシュ海の南、ヒンツィア海から北上してくる暖流については昨晩島民から教わった。
つい癖で地図で確認したくなるがそれはトランクにしまっていた。
しかし荷物を開けば最後、トランクごと全てが飛んでいってしまうだろう。
それほどにヨットは勢いづいていた。
潮風を顔面にまともに食らって息がしにくいし、風と波を切る轟音で耳がいっぱいだ。
振り返ればキールヴェクのフードは脱げて彼の泥色の髪がぐしゃぐしゃになっているし、イーリスのヘアピンが外れて彼女の美しい髪がビロードの旗のようにたなびいている。
グレイズをはじめ船旅でほとんど使い物にならない乗組員三名は船体にしがみつくので精一杯だった。
目的地に着くまで握力が持つかいささか不安になる。
本来ならば航行には星の読める航海士や水先案内人がいてしかるべきだったが、ペローラ諸島は隣り合う島々が見えているので外部から来たセルゲイでも迷わず運航できている。
先日の夕餉の場で見えている島へは泳いで行けると豪語した若者がいたのには驚かされた。
あまりにも暇なときにはそうした遠泳をするのだという。
真偽は定かでは無いが彼らがグレイズよりも泳ぎがずっと得意なのは間違いなさそうだった。
話だけでなく実際に見せてもらえたらもっと楽しかろうに。
グレイズは背後ですっかり小さくなったトルパツィオ島と親切な人々を名残り惜しんだ。
ほどなくして潮風に全身を洗われていたグレイズたちはエスメラルダ島へ到着した。
勢いがつきすぎて舳先が波止場に激突してしまわないか心配だったがそこは大丈夫だった。
セルゲイが大気に向かって口笛を吹き感謝と願いを念じ告げると風は甘やかに緩んだ。
すぐに聴きとめてくれたらしい。
いなせな騎士の真似をしてグレイズもくちびるを尖らせてみたがそもそも口笛が吹けなかった。
あまりの出来なさに情けなさが突き上げて腹の底から笑えて来た。
今度時間があれば教わろう。
ゆったりと浅瀬を進みつつ突き出している無数の波止場に迷っていると小型のボートがふらりと現れた。
グレイズが警戒に身体を縮こまらせるなりセルゲイが顎をしゃくった。
「水先案内人だ」
騎士がそう言うとすぐに小舟にただひとりの船頭――麦わら帽子の小柄な男が日に焼けて真っ黒の腕を振った。
「こっちは商船なんだわ。ジグザグ迂回して北のほうにまわっとくれ。そっちのが空いてる」
あっけらかんとした男の声にセルゲイが頷く。
「グレイズ、頼む」
「何を?」
「チップ」
王子は理解した速さのまま頷き、船から手が離せない騎士に代わって水先船を横付けしている男に金貨一枚をしっかり手渡しした。
「どれどれ」
男は金貨を日にかざし品定めをしていたと思いきや突然顎を下げた。
「ヴァニアスのダブルローズ金貨!」
「足りるか?」
グレイズは生唾を飲み込んだ。
「余る、いや、身に余るぐらいだ! 息子に見せてやるとするよ!」
水先案内人は金貨を懐に丁寧にしまうとほくほくの笑顔で先導をしはじめた。
***
エスメラルダ島はこれまでのペローラの島々と違い街を城壁で囲っていた。
ブロシャデイラという名の街の外は緑がそのまま保全されているらしい。
護岸するように作られた波止場は石造りで石畳は街の中へと続いている。
グレイズの踵が堅い音を立てるのは久しぶりの感触に驚いているかのようだ。
緊張に固まっていた腕や首、身体をゆっくりほぐしていると胸元からペンダントが出てきた。
慌てて首紐をたぐり寄せるとぼさぼさ頭の魔術師キールヴェクが急に胸元を覗き込んできた。
「それ、それ!」
彼の髪は汚らしく絡み合い老人の白髪のように黄色く濁っていてかなり臭った。
鼻を刺す悪臭を忘れられていたのは爽やかな潮風のお陰だろう。
「〈ウィスプ〉じゃないか! おいらのも見る?」
キールヴェクは満面の笑みで懐から光る丸い物を取り出した。
それはグレイズのものと異なり薄紫色をしていた。
聖都ピュハルタに鈴なりになっているウィスティリアの天蓋を彷彿とさせる上品な色あいだ。
「ペローラの人間ならば誰でも持っているというのは、本当なのだな」
「ん? ああ、そうだね。みんなはニセモノを持ってるけど」
魔術師の笑顔、歯垢に黄ばむ歯列も強烈に臭う。
悪臭に滲む涙をこらえながらグレイズは小さく訝った。
しかしみんなが持っているならばなぜ老人はグレイズに忠告したのだろう。
王子が首をひねっている手前で自分の〈ウィスプ〉を大切そうにしまった魔術師がほくほくと喋っている。
「それ、金色で珍しいね。もしかして本物? あのドラゴンから王子様が剥がしたのかい? やるなあ! さすがおいらの見込んだお方だ!」
「いや、これは――」
グレイズが経緯を説明する前に魔術師はひとつニヤリとした。
「それさえあればドラゴンの行き先なんかすぐにわかるのに」
「本当か?」
食いつくグレイズにキールヴェクは満足げに頷いた。
「そう。おいらが薬にすれば! だからそれ、頂戴!」
伸びてきた魔術師の手からグレイズは無意識に逃げた。
「お姫様の行き先、知りたくないのかい?」
キールヴェクの瞳が一瞬ぎらついた。
どきりとした拍子に警戒が強まった。
これまで鳴りをひそめていた男が突然積極的になると急に不審に見えてくるから不思議だ。
以前のグレイズならば友情を見出して気を許していたかもしれない。
「これはマルーがくれたものだ。だから――」
「我が君」
グレイズが直感に従い断ろうとした時、イーリスが身体を割り入れてきた。
「お話のところ失礼いたします」
正直、助かった。
「か、構わないよ」
彼女のほうはというと鏡もないのに潮風にほどかれた髪をきっちりと結わえ直していた。
「今晩の宿と食事とを確保したく。しばしの別行動をお許しください」
穏やかな目元が実の姉のように頼もしく見える。
恋人マルティータが慕うのももっともだ。
「構わないよ。しかし、君一人で大丈夫かい? セルゲイをつけようか」
「お心遣いに感謝します。けれど武芸でしたらあなた様よりはキャリアがありますわ」
イーリスは目を細め軽く膝を折るとウインクを残しブロシャデイラ市街の人波へ紛れていった。
侍女の美しい後ろ姿を追うかのように魔術師が一歩踏み出す。
「王子様。おいらの話、憶えておいて。じゃ」
「お前、キール! どこ行くんだよ!」
と、グレイズの背後から知った男の声がした。
セルゲイだ。
「錬金釜を探しに行く」
「んなもんヨットに載らねえよ!」
「じゃあ、魔術書! また明日ヨットでね!」
杖以外はほとんど着の身着のままのキールヴェクが遠ざかり彼も人混みに紛れた。
浮浪者や遍歴学生とは彼のような姿をしているのだろう。
実際に会ったことはなくいずれもグレイズにとって本や新聞で読んだ文字だけの存在だ。
「あいつ、いつでもどこでもちゃらんぽらんだな」
ぼんやりと考えるグレイズの隣でセルゲイは景気よく関節を鳴らしながら身体をほぐしていた。
あまりに豪快すぎるのでそのままぽっきりと折れてしまわないか不安になる。
「キールの奴、本当に嫁さんのこと考えてんのかな」
そうだ。グレイズは思い出した。
キールヴェクもまた妻をドラゴンにさらわれた男である。
グウィネヴィアという典雅な名の彼女はしかも身重なのだそうだ。
心配のあまり気がふれてしまうと人の営みを忘れてしまうものなのかもしれない。
「わからない。しかしこれが――〈ウィスプ〉があれば、いつかドラゴンの元にたどり着けるらしい」
「ふうん」
グレイズは〈ウィスプ〉を撫でると丁寧に懐へしまいこんだ。
ここまで読んで下さりありがとうございます。書籍版では完結済。物語の最後までお読みいただけます。お求めはこちら→https://961cocoanna.booth.pm/items/2286387
これからもどうぞよろしくお願いいたします。




