12、剣に誓う正義(1)
ラ・ウィーマ村を襲っていたルジアダズ海賊団は、ドラゴンの飛翔のあと加勢したグレイズたちと、村人の救出を終え反撃に出たシュタヒェル騎士によって鎮圧された。
「ドラゴンがいるってーから来たのによォ」
反省の色がない海賊の悪態を聞くに、彼らは下っ端でしかなく、海賊の残党はまだファーラシュ海を我が物顔で渡り歩いているらしい。鎮火もなされたが家々は木製の為ほとんど焼けてしまった。火災に巻き込まれた者、いたずらに殺められた者も少なくなかった。
シュタヒェル騎士も例外ではなく、海賊を演じていたセルゲイの友テオも犠牲者の一人になってしまった。もしかしたらフェネトの妹――マリ・メイアもその中にいたのかもしれない。
いや。死者の褥――墓を掘り、遺体を埋めながらセルゲイは冷え切った心で自分に言い聞かせた。他の島でも探してみよう。行くことがあれば。たとえ結果が望めずあるいは芳しくなくとも、可能性が麦の一粒だけでもあるならば努力するべきだ。
これは未来を奪ってしまった親友への罪滅ぼしなのだから。
太陽が、ゆっくりと水平線から昇りサフィーラ島の輪郭を照らし出すのを、セルゲイは妙に冴えた目でぼんやりと見届けた。
騎士が一夜を過ごしたのは、元々マルティータにあてがわれた部屋だ。
ここでは今、グレイズが眠っている。
彼は夜の間ずっとベッドで寝返りを打ち、貴婦人の残り香にすがっていたが、明け方ごろ、寝息を立てた。ようやく寝付けたらしい。
「心配で追いかけて、逃げられて……。かわいそうになァ……」
そっと覗き込んだ寝顔はしかめられたままで、とても安らかといえたものではない。
目尻にたまったしずくが、グレイズの苦しみを如実に物語る。
少しでも眠ったほうがいい。
いくら鈍感なセルゲイでも、ここは気を遣うべき場面だとわかった。
臆病者で通っている〈獅子王の再来〉は、火事場の馬鹿力と言うべきか、驚くべきリーダーシップと勇気を見せてくれた。いくら彼の中に秘められていた実力とはいえ、発揮したからには大層疲れたはずだ。
騎士は、王子に訪れた安寧を何ものにも邪魔されぬよう、貴婦人のための天蓋ベッド、そのカーテンをそうっと閉めた。そして、開けっぱなしの窓を閉じるために窓に近づいた。
潮風に混じって、なにかが鼻先を掠める。おいしそうな匂いだ。
魚を焼いた焦げ臭さと煮立てたスープのいい匂いが、騎士の鼻から腹へ直接突き刺さった。
少し頭を出すと、匂いは城の半地下にある厨房から漂っていることがわかった。
間違いない。朝餉の支度だろう。
いいなあ。食恋しさと同時に、セルゲイの喉と腹が切ない声を上げた。
それもそのはず、上陸作戦以降、何も口にしていない。水もだ。
名残惜しさはあるけれど、思い切って窓を閉じた。
火事の被害が比較的少なく部屋数の多いペデスタル城には、たくさんの騎士と怪我人が収容された。家や家族をなくした村人も、玄関ホールや廊下などで身体を休めている。
そんな彼らのために、船のコックは揺れないかまどで思い切り調理しているのだろう。
セルゲイの腹がおいしそうな匂いを忘れられないとまだ訴える。しかし勤めゆえに、主君の傍を一時たりとも離れられないので、自分の食事すら取りに行けない。
ほとんど戦場と言える状況で、生真面目なことを言ってはいられないとも思う。
けれど、傷心のグレイズを独りにする時間が怖くて部屋から出られない。前例ができたから、なおのことそうだ。グレイズはマルティータのこととなると、本当に目の色を変える。
現に昨晩、賊の蔓延る城や黄金竜に単身突撃するという、無謀な挑戦を試みたではないか。
いかに国王から指導を受けようとも彼はセルゲイのように騎士団による正規の心身の鍛練を受けていない。彼自身も自覚していない巨大な勇気を誤ったタイミングで爆発させたのだろう。
さらに彼が、セルゲイが知るどんな人物よりも繊細な男だという点も、忘れてはならない。
助けに向かった最愛の妻に、しかもドラゴンに乗って逃げられた現実を受け止めきれず、最悪の場合、身を投げてしまいかねない。
複雑なやつ! 面倒くさい!
セルゲイが頭を抱えたその時、こつこつという淑やかなノック音がした。
続いて聞こえたくぐもった声は、女性のものだ。
「入れ」
セルゲイの返事を受けて、すぐに入ってくるだろうと思いきや、扉はなかなか開かない。
はたと思い当たりドアノブを握る。
扉を開けると、おいしそうな匂いにぶつかった。
「イーリス殿!」
つるりとした白い顔の貴婦人の登場に、セルゲイは喜んだ。
エンザーティア伯爵令嬢の彼女は、成人したときからマルティータの侍女を務めている。
騎士から見れば、王太子妃同様、高嶺の花の一輪だ。
「気の利かない騎士様ですこと」
檜皮色の美しい栗毛を持つ侍女は、くちびるだけでそう言うと、セルゲイを肩でいなして、手にしたトレイをテーブルの上に置いた。そこでは二人分の食事が湯気を立てていた。
セルゲイは急ぎ扉を閉めて、八つ年上の美女の視界にすかさず駆け込んだ。
「かたじけない。しかしこのような間抜けを、あなたは思いやってくださった!」
イーリスの足元に膝をつきくちづけに手を取ろうとするも、白い手はするりと逃げていった。
「トレーを置きたいのだけど。それと思い上がらないでくださる。我が君、ひいてはお嬢様のためよ」
侍女の切れ長の瞳は、冷ややかに細められてもなお美しい。ぞくぞくする。
「なんと奇遇な! 俺と同じく、篤い忠誠心をお持ちであることよ!」
憧れるにふさわしい女性だ。騎士と貴婦人という関係を超えてみたくなる。
セルゲイがうっとりと見上げた侍女は、眉をきゅっとひそめた。
「ねえ、普通にしてくださらない?」
イーリスのくたびれた声に、セルゲイは、はっとした。
よく見れば目元には隈がうっすらと滲み、服の裾には煤がついていた。
「イーリス殿、俺、至らなくて、その――」
「よくてよ」
イーリスの微笑みにも疲労が滲む。
「わたし、ここには踊りに来ていませんもの」
当然だ。彼女もまた、深夜の動乱の中、主であるマルティータの無事を思い、血眼になって探していた一人だ。それは、貴人の守護者として当然のことだった。
竜が落とした不思議な手鏡と、そこから聞こえた公女への伝言について伝えたのだが、それでも半信半疑であったのだろう。それももっともだ。なぜなら彼女はドラゴンに乘って飛び去ったマルティータの姿を見ていないのだから。
おもむろに立ち上がったセルゲイが侍女のために椅子を引くと、彼女は少しいからせていた肩を落とし、腰を下ろした。セルゲイも腰掛け、組んだ両手を心臓の上に重ねる。
「母なる海よ、父なる大地よ、精霊たちの手により我らに命をお分けくださり、感謝します」
スィエルの祈りを捧げ、食事をいただく。
バターの香りが利いている塩辛い魚介類のスープは大味だったが腹を温かく満たしてくれた。
思った以上に腹を空かしていたらしい。ほとんどかきこむようにして食べ終えると、清潔なハンカチーフの代わりに手の甲で口を拭った。
それを侍女に睨まれたが、そのくちびるからは思いもしない言葉が飛び出した。
「休憩してきなさいな」
セルゲイは目を丸めた。
「とんでもない! 職務放棄に――」
「三〇分だけ、わたしが代わるわ。ユスタシウス様――ドーガス卿があなたに話があるそうよ。その前に身体を清めるのもおすすめするわ」
イーリスはフリルの縁取る魅惑的な胸元から懐中時計を取り出して目を細めた。
「戻ってきても同じ臭いをさせていたら、承知しないから」
***
セルゲイはどきりとした衝撃のままに立ち上がりすぐに部屋を出た。
男の体臭が女の鼻に合わない事実はよく知っているけれど面と向かって言われるのは心外で傷つくものだ。
憧れの貴婦人からの気遣いだとしても嬉しさよりショックが勝る。
確か井戸があったはずだ。先ほど窓から見えていたのを思い出す。
濡らした布で拭えばいくばくかは違うはずだ。
そこへ向かっている途中に立派な体躯の男が遠くから現れた。
騎士はしょぼつく目をしばたたかせた。
身を清める前に目的の人物と出くわしてしまった。
「セルゲイ。来てくれたか」
副団長のドーガスだ。
彼の顔色も土気色で優れない。
彼にいざなわれたのは薄暗い小さな部屋だった。埃っぽい屋内は物置を思わせる。
一つしかない窓から差し込む陽光が、寝不足の目に眩しい。
ドーガスは窓を背に腕を組んだ。
「今後の予定だ。我々の〈栄光なる王子〉号は明日一度本国へ帰還する」
逆光で表情は窺えない。しかし、苦々しいバスバリトンが全てを物語っている。
「……ですよね」
セルゲイの喉が掠れた。
少し早すぎる決断だが、納得もできる。
船には元々、ヴァニアス島とサフィーラ島との往来分の食料しか用意されていなかった。
甚大な損害を被ったラ・ウィーマの村に滞在するのもはばかられる。
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