10、十戒、その身に帯びて(2)
それから太陽と月とが三回巡った〈白羊の月〉十三日の早朝。
日が昇る前の昏い空に向かってまっすぐに伸びたマストの上、見張り台から声が上がった。
「見えた! サフィーラ島だ!」
それと同時に大砲のデモンストレーションが王子の船団を出迎えた。
あちら側――シュタヒェル騎士たちが扮する偽物の海賊たちにもこちらが見えたのだろう。
怯える必要などない。
これだって示し合わせた茶番の一つなのだ。
もはや嗅ぎ慣れた潮の匂いと景気のよい大砲の音が長かった船旅の終わりを彩る。
「みんな伏せろ! セルゲイ! 君も最悪の場合には逃げるんだ!」
サフィーラ島上陸のために装備を調えていたグレイズは煙が上がり発破音が聞こえるたびにセルゲイの隣で縮こまった。
「万一、沈没でもしたら――」
「しない、しない」
心底怯えている彼には申し訳ないが決して船には当たることの無い大砲を怖がるのは難しい。
気の毒な王子の目に、今のセルゲイは蛮族の攻撃にも物怖じせずに背筋をピンと伸ばしている凛々しく頼りがいのある男に見えていることだろう。
そうだったらいいけどな。
少し自信過剰な想像を騎士は心の中でそっと濁した。
やがて威嚇射撃は止まった。
懐中時計を見る時間がないのでわからないが、打ち合わせ通りならば二〇分ぐらいが経ったころだろう。
波の落ち着いたころを見計らって、ドーガスが上陸用の小さな船を下ろすよう指示を出した。
数隻ずつ下ろし、着水したところで数名ずつ乗り込んでゆく。
波の影響をもろに受ける小舟の転覆を心配する王子を乗せてセルゲイは同僚たちと櫂を手にして漕ぎだした。
即興でパブにいるスカートの短い娘についての歌をこしらえて漕ぐタイミングを合わせる。
おお 酒に溺れりゃ 床が見える
あの子のスカートの中身も見える
よお 壁に踊りゃ 鏡が見える
あの子が見ている誰かも見える
そう 喉が鳴るなら 歌ってみせろ
あの子がこっそり耳そばだてて
おお 腕が鳴るなら さらってみせろ
あの子がベッドで笑ってくれる
乗り合わせた騎士には大受けだ。
セルゲイがリードを止めても、誰かが先んじてくれるぐらいには、気に入られて覚えられた。
かくいう本人は、口では単純な旋律をなぞっているものの、頭の中はこの馬鹿馬鹿しい茶番への不満でいっぱいだった。だから、波に八つ当たりするように力一杯漕いだ。
「あーあ! まったく、間違いだらけだよ!」
「ど、どこがだ?」
セルゲイの背後で、小舟のバランスのために一緒になって漕がせている王子が喘いだ。
うっかりした隙に飛び出した本音に、グレイズがすかさず反応した。
「歌詞を間違えたか? 至らぬ点があるのなら指摘してくれ」
「そうじゃない――!」
「装備でも、心づもりでも、何か!」
グレイズの言葉はいつもよりもくっきりとしていた。
「きっとマルーは恐ろしく、心細い思いをしているに違いない。だから!」
グレイズの力強い声に、騎士たちの漕ぐ手が一瞬止まる。
「一刻も早く、助けてやりたいんだ! そのためならば、私はなんでもする!」
決然とした王子の言葉にセルゲイは息を飲んだ。
そして、心ごと腕が震えて、なぜだか急に目頭が熱くなった。
その時、小舟の推進力が上がった。
仲間たちも同じだったのだろう。振り向き、顔を見合わせずともわかる。
グレイズの心から溢れ出した純朴で優しく清い決意が、騎士たちの心を奮い立たせたのだ。
***
「舟だ!」
「誰でもいいから、助けて!」
サフィーラ島の西岸に乗り付けると、甲冑姿のセルゲイたちは思わぬ歓迎を受けた。
島民が着の身着のままで一斉に波止場へと押し寄せて、各々の船に乗り込んでいったのだ。
セルゲイたちが乗ってきた小舟も、ある一家にたちまち奪われてしまった。
「敵ではないようだが、これは……?」
大将であるグレイズが神経質そうに訪ねてくるが、セルゲイはすぐ答えを用意できない。
島唯一の村ラ・ウィーマに煙が上がっているのも見えた。
これも演技、筋書なのか? 村人を巻き込む話など聞いていない。ましてや追い詰めるなど。
打ち合わせを遥かに超えた予想外の展開に頭が真っ白になる。
「ドーガスさん!」
「状況は!」
ドーガス――もっとも経験ある指揮官が吠えた。セルゲイに遅れてやってきた副将の顔も青ざめている。つまり、本当に不測の事態である。
「ラ・ウィーマ村が燃えて、住民が自主避難しているようです! 聞くと、ルジアダズ海賊団に襲われたとのこと。出会う者から救助を要請されています」
騎士の一人が答えると、ドーガスは頷いた。
「わかった。まずはペデスタル城へ! 王太子妃殿下の救出を優先!」
「ドーガス卿! 島民の命も救うべきだ!」
その時、声と敬礼を揃えた騎士の中から、異論を唱える声があった。
同時に騎士たちが手にしていた松明が一際赤く燃え上がり、その男の顔を照らし出した。
なんとグレイズだった。珍しく背筋をぴんと伸ばした彼は果敢に噛みついている。
「我々は正義成す騎士だ。乞われたのなら救おう。それが騎士道ではないか」
反対に、副将の顔は青ざめていた。それでもなおドーガスは落ち着き払っていた。
「仰る通りです。しかし殿下、それではマルティータ様が――」
「マルーがいるというその城には私が向かう」
と、きっぱり言い放ち、王子は集まった全員を見回した。
「元よりこの島を占拠していた海賊の討伐が私たちの任務だろう。ここは二手に別れて一気に討とう」
炎が闇から浮き彫りにしたグレイズの姿があまりに凛々しくてセルゲイは我が目を疑った。
正義と勇気に心を熱く燃やしながらなお彼は上に立つ者として冷静に振る舞っている。
「セルゲイ以下は私と共に海賊の根城――」
「ペデスタル城」
セルゲイが熱に浮かされたように一言添えると、王子は頷いた。
「ペデスタル城へ。村を襲っている今、城は手薄のはずだ。この好機を逃さない。城を取り戻した暁には、我が軍の旗を掲げる。無ければ私のマントを。ドーガス卿以下はラ・ウィーマ村へ海賊の排除と村民の救助に向かってくれ」
「グラスタン殿下……!」
騎士ドーガスの感服しきった顔といったらない。陶酔とまではゆかぬが、感激に似た表情だ。
その後ろに続く仲間たちも同様で、各々が秘めていた勇気や闘志が露わになったようだ。
なぜわかるのか。それこそ説明は必要ないだろう。
この場で誰よりも心を熱く震わせているのは、セルゲイなのだ。
この短時間で、グレイズは打開策を立案し、指揮を取り、その上で仲間を奮い立たせてしまった。人は追い詰められると本性を見せるというが、王子には先天的な君主としての才があったようだ。それも、人心をも掌握する名君の片鱗が見える。末恐ろしいものだ。
奇しくも国王ブレンディアン五世の目論見は既に大成功を修めつつある。
あとはこの茶番を終わらせるだけだな。
セルゲイの剣と盾とを握る拳が固まった。
***
作戦を共有しあった一同は、海賊が根城にしている――という設定の地へ急ぎ向かった。
ラ・ウィーマ村にさしかかると、二手に分かれた。
あちこちに火の手が回っている。放火は自明で、家庭での火の不始末による火事ではない。
最悪だ。木々の燃えて爆ぜる音と、下卑た高笑いとが混じりあい、地獄の様相だ。
燃えさかる家の中からはみすぼらしい装いの男たちが金目のものや女子どもを引きずり出していた。ぞっとした。魂の抜けた肉体を愚弄する悪趣味な男をセルゲイは一思いにぶった切った。絶命したならず者を蹴り転がし、顔を見る。知った顔ではなくて一抹の安心を憶える、
ペデスタル城に向かう道すがらなので遺体を葬ってやることもできない。せめてもの思いで近くにあった布を被せたり、草むらに隠してやる。
いくら欲求不満の塊である仕込み――従騎士たちでも、突然罪のない島民を蹂躙するなど、ありえない。そもそも筋書通りならば、海賊役の男たちはペデスタル城に待機し、グレイズ率いるシュタヒェル騎士たちとの殺陣を演じることになっていた。
「この、蛮族が!」
悲惨な現場に耐えかねたのか、同行の騎士たちも生死にかかわらず村人を助けている。
彼が倒し、足蹴にした汚い男の腕には、刺青がくっきりと刻み込まれていた。
「やっぱり本物か!」
疑念が確信に変わり、セルゲイの全身が粟立った。
「どうして本物のルジアダズ海賊団がここにいるんだ!」
たまらず虚空に叫んだがそうしたところで誰もわからないに違いない。
海賊に斬られた村人や上陸した騎士に倒された「本物」の身体が次々と土の上に倒れ落ちて重なる。
それを見ながらセルゲイは心を鬼にして剣を握り直した。
できることならば助太刀したい。すべきだ。
止まらない歯ぎしりに顎がこれ以上なく痛む。
覚悟を決めろ、セルゲイ。俺はただの騎士じゃない。
「城へ急ぐぞ!」
「あ、ああ!」
セルゲイは背後にかばう主君グレイズではなく、自分に言い聞かせるように叫んだ。
海賊と騎士とが炎の中で戦う地獄のような光景に自らも入り込み、警戒しながら進む。
そのうちに比較的小綺麗な格好をした海賊男が倒れているのに気づいた。
刺青は無い。思わずセルゲイが屈むとグレイズが剣の切っ先を男に向けた。
「セルゲイ、離れろ!」
「待て!」
騎士の心臓がきゅっと縮んだ。
「ゾラ、ゾラ!」
彼はシュタヒェル騎士団の従騎士で今回の茶番のために海賊役を買って出てくれた一人だ。
頬を軽く叩き、口元に耳を近づけて息を確かめる。彼の心臓はまだ動いていた。
「誰か、ゾラを!」
セルゲイの声に応じて駆けつけた従騎士に知人を頼む。
「セルゲイ、なぜ海賊を助ける! この村を襲った蛮族だぞ!」
「説明はあとだ!」
セルゲイは主君に背を向けて勢いよく立ち上がった。
困惑する彼の顔を今は見たくなかった。
それに今、真相を伝える時間の余裕などない。
「とにかく城へ行こう、グレイズ! マルティータ様が危ない!」
騎士が王子の肩を掴んだ、その時だった。
天をつんざくように高く、大地を揺るがすように低い咆哮が、あたりに響き渡った。
生まれて初めて聞く世界がひっくり返るような轟音に咄嗟に耳を塞ぎ声の主を探す。
「あれは、マルー!」
すると騎士よりも先に王子が勢いよく駆けだした。
一呼吸遅れて見た方向には黒い城の影が、そして城の上には巨躯の生物が翼を広げていた。
陽炎かもしれないその影は本の中にしか現れない伝説の生きものドラゴンを髣髴とさせた。
その足元に小さくいるのは誰だろう。
スカートと赤髪を弄ばれる娘のシルエットだ。
ドラゴンとプリンセス。
状況が許さないのにセルゲイの脳裏にぼんやりと童話の挿画が浮かび上がる。
「……聞いてねえよ……」
セルゲイの顎先からつうっと汗が落ちていった。
全ては筋書き通りなのか? 本当に?
「聞いてねえよ!」
騎士の雄叫びが空を赤く焦がす炎の穂先に混じりあった。
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