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薔薇の王子、幸運の翼  作者: 黒井ここあ
第一章 青き誓い

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10、十戒、その身に帯びて(1)

 ダイヤモンドの形をしたヴァニアス本島を出発して数日。

 空と海のまばゆい青さに挟まれて、順風満帆、全てが筋書き通りに進んでいる。


「何が〈栄光なる王子(プリオンサ=グローマ)〉号だ」


 王子近衛騎士セルゲイ・アルバトロスは、腹の底からため息をついた。

 胸の上下に合わせて鎖帷子がささやかな音を立てた。そのはずだ。

 だが、風の音轟く〈栄光なる王子(プリオンサ=グローマ)〉号の甲板では、まったく聞こえない。

 代わりに鼓膜を打ち鳴らすのは、青空を滑るあほうどり(アルバトロス)の甲高い雄叫びだ。

 小さな身体に大きな翼。若々しく羽を伸ばし、風を乗りこなしては岩の角で遊び緑の島に休む。

 波を街に、島を女に変えればまさにかつての自分だ。

 自由気ままなあほうどりの姿に王子近衛騎士になる以前の無責任な己が重なる。

 しかし苛立ちの原因は別にあった。恋の真似事をしていた自分のことはこの際どうでもよい。

 今は深い慈愛(グラスタ)に満ちた王子を支えてやらねば。

 ごめんよ、グレイズ。

 馬鹿のつくほどまっすぐな王子。

 胸の内で呟いた主君への小さな謝罪は、誰でもないセルゲイの胃を引き絞った。

 唯一無二の友であるセルゲイを信じてくれた彼への裏切りを働いている気分だ。

 考えれば考えるほど、理不尽である。

 これは子を愛する親がやることでも、窮地を救われた騎士が恩人に返すことでもない。

 当時九歳だったセルゲイが、見栄と家名の維新を掲げた父親に、本人の意思にかかわらず、ドーガス子爵家に突然放り込まれたことも、この件に比べれば小さく感じられるから不思議だ。かといって、父を許すわけではないが。

 いっそ青い怒りに燃える矛先を首謀者たちにつきつけてやりたいが、ことごとくここにはいない。

 国王ブレンディアン五世は騎士団長アルケーオ・デ・リキア卿と共に、今、国民の盾として王都ファロイスの守りを固めている。やがて来る敵襲に備えているのだ。

 憧れが地に落ち侮蔑に転じるのだけは、幼い日の自分に免じて、どうしても避けたかった。

 セルゲイ少年は小姓になる以前からシュタヒェル騎士団長――奇しくも同期であるフェネトの父だ――を見上げ、憧れ慕ってきた。君主にかしずきながらも決して丸まることのない立派な背中、風格を損なわぬデ・リキア卿に強く逞しき、そして優雅な理想の騎士像を重ねていたのだ。それを、フェネトと揃って騎士ドーガスの後ろから羨望のまなざしで見つめていた。

 彼こそ、王国に咲き誇る薔薇の大輪を守る立派な(シュタヒェル)であると。

 だが心の中の小さな声は、卑劣な大人を罵り、己の砂金のような正義を尊んでいる。

 今はただ頭をぐしゃぐしゃに撫でまわしてくれる風だけが心地よい。

 少年が頭を掻きむしりたい気分でいっぱいなのを、風は察してくれたのかもしれない。


「セルゲイ」


 その時、暖かい男声に呼ばれた。聞き慣れたバリトンに振り返る。


「ドーガスさん」


 他でもない、シュタヒェル騎士団副団長ユスタシウス・ドーガスだった。

 紆余曲折あり王子近衛騎士となったセルゲイがドーガスの隣――戦場に立つのは、これからが初めてである。今、息の詰まる船尾楼から連れ出してくれたのも、彼だ。

 容赦なく吹き付ける風の中、二人の騎士は隣り合って手すりに身を寄せた。

 髪油で撫でつけていた前髪が強風でこぼれて、視界を邪魔してくるのが煩わしい。


「よい風が吹いているな。お前の〈ギフト〉のお陰か?」


 無意識のうちに噛みしめていた奥歯を開放すると、潮の香りが胸いっぱいに入り込んできた。


「俺の風の力なんて、ちっぽけなもんですよ」


「ほう」


 セルゲイの視界の端で、騎士ドーガスは面白そうに眉を持ち上げた。


「お前の風貌に惚れ込んで、風の精霊ヴィンドゥールが味方をしてもおかしくはないがな」


「どうせ俺は顔だけの三枚目です。それに風なんて、自前のヨットの帆を張るぐらいでほかに使い道なんか思いつかないっすよ」


「そう、いじけるなよ」


「いじけてません」


 セルゲイがそっぽを向くと、ドーガスも彼の狭い(ひたい)を水平線に向けた。

 ドーガスは、精悍で穏やか、言葉の節々に賢さと品の良さが滲む。そして何より知的な男だ。

 彼の隣にいると、自分の分不相応さを思わされる。本来ならば天地がひっくり返っても騎士にはなれない商人一族アルバトロス家の三男がシュタヒェル騎士――しかも、王子近衛騎士になってしまった。伝統ある貴族や士族に面目ない事態だとは思う。

 セルゲイは浮かない気持ちで、顎を上げた。

 視界の端、少し離れたところを仲間のガレオン船が波の尾を引き引き進んでいる。

 どの帆もぱんと張り詰めていて、ご機嫌そうだ。

 俺とは真逆だよ。セルゲイは啜りがてら、鼻のてっぺんに思い切り皺を寄せた。


「ドーガスさんは国王陛下と騎士団長閣下に反対してくれたんでしょう?」


 自分の口からは、確かにいじけた音色がした。


「もちろんだ。陛下や閣下のお考えだとしても私の主義に反する。作戦のために我々の貴婦人方を危険にさらしたくはなかった」


 ドーガスは間髪を入れずに答えてくれた。よかった。師の高潔さは損なわれていない。


「よかった。俺、ドーガスさんを軽蔑せずに済みます」


 ハハ、とセルゲイが立てた笑い声は思った以上にわざとらしくなってしまった。

 気まずさを誤魔化すのに言葉を重ねる。


「そもそも、グレイズ――王子殿下を海賊にけしかける必要なんかないと思うんす。海賊をぶちのめす言いがかりなら、他にいくらでもつけられたはず。ヅラを奪った侮辱罪とか」


「やめろ」


 ドーガスが厳しく吐き捨てた。そう、国王の頭頂部が近年薄く心許ないのは禁句なのである。


「王子殿下とマルティータ様……二人ともかわいそうです。息子の幸せを目の前で取り上げなくちゃいけないほど、国王陛下は海賊野郎が憎いんですか? それとも、そこまでして息子を鍛え上げたいんですか?」


「どちらもなんだろうな」


 騎士の静かな同意が新手のウミネコの甲高い鳴き声に混ざった。


「陛下は、ご自身が獅子王でありたかったのだ。そのお気持ちが殿下に向くのは、もっともな成り行きだろう。それに世継ぎの王子であらせられるグラスタン殿下が経験を積むのは、よいことだ。殿下もまた、王国にかしずく騎士のお一人なのだからな」


 セルゲイは理解に思わず鼻を鳴らした。納得はしていない。


「お前の言う通り、その気になればいつでも本物の戦争を起こされるような陛下が茶番で澄まそうというのだ。丸くなられたものよ。これには付き合って差し上げねばなるまい」


 ドーガスが国王の肩を持つのはもっともだ。彼は、善きを讃え悪しきに苦言を呈する男で、それは主君であっても変わらない。己の正義に実直な騎士だ。

 しかしセルゲイには、彼の言うようにどっちもどっちだとは思えないのだ。

 金色の(たてがみ)をたなびかせ青い瞳を燃やす国王のほうがよっぽど獅子然としているではないか。

 内気な王子の黒髪をわざわざ逆立て、青い瞳を悲しみに波立たせることもなかろうに。

 セルゲイは思わず、空へ腕を伸ばした。

 海鳥がひらひらと自由奔放に飛ぶ。掴めるものなら掴んでみろと言っているようだ。

 彼らはどこからやってくるのだろう。緑の島々で休まず、わざわざ海原の上を泳いで。

 ご機嫌な彼らの足を引っ張ってやりたくなるが、手のひらは虚空を掴むばかりだ。


「でも、こんなこと正義じゃない。騎士道に反してる」


「ならば、この作戦に参加しなくてもよかったのだぞ」


 セルゲイは返す言葉もなく黙りこくる。

 ドーガスの言う通りだ。


「知っているだろう。我々が帰依するのは主人ではなく、あくまで騎士の十戒なのだから」


 先輩の声は暖かく、そしてどこか乾いていた。

 騎士の十戒。優れた技術を持て。勇気をもって、弱者を救え。いつも正直に高潔たれ。誠実であれ。慈悲深く寛大であれ。信念を持て。常に礼儀正しく、無私にして崇高な行いに身を投じよ。これは剣を手にするとき、何度も暗唱させられたものだ。

 食事のたびに、この世に満ちるマナと(スィエル)へ感謝を述べるように。

 騎士がただひとつ封建制を覆せるとき、それは君主が十戒を逸脱するときだった。

 今回の国王の命令は、それにまったく当てはまる。

 でも。セルゲイは首を振った。


「それじゃあ、逃げるのと同じです。それに、グレイズがやると決めた。俺はあの人の信念に忠義を尽くさないといけません」


 ドーガスはうんともすんとも言わずセルゲイの顔をじっと見据えてきた。

 主君との約束――友として名を呼ぶことでドーガスに角が立ったのかもしれない。

 なんだかばつが悪い。


「俺の主人はグレイズです。あいつが言う正義になら俺は従います」


 改めたセルゲイの声はもごもごと言い訳じみた。

 緊張の一瞬のあと先輩は破顔した。

 そして一回り年上の彼は優しく、だがしっかりと後輩の肩を抱いてくれた。


「立派になったな」

ここまで読んで下さりありがとうございます。更新を待たずに最後まで読める書籍版はこちら→『薔薇の王子、幸運の翼』(2020/2023、文庫、356p)https://961cocoanna.booth.pm/items/2286387

これからもどうぞよろしくお願いいたします。


手動更新なのでアラートおすすめです。

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