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薔薇の王子、幸運の翼  作者: 黒井ここあ
第一章 青き誓い

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9、金色の姉弟(2)

 全ては国王ブレンディアン五世の企みだった。

 その目的と手段はマルティータを含め、騎士団長、神子姫、セルゲイなど全ての関係者に伝えられた。

 しかしたった一人父が心から鍛え上げたがっている息子グレイズにだけは伏せられた。

 国王の目的は三つあった。

 一つ目はグレイズ――王太子グラスタンを真の男に目覚めさせること。

 十八年経った今でも現状にまったく満足していない父は、ついに息子を戦地に向かわせる決断を下した。

 それで魔術師によって最愛の姫君がさらわれるという寸劇を打つことにしたのだ。

 目前で妻を奪われれば慈悲(グラスタ)の名を体現する――国王に言わせれば優しすぎるグレイズでもさすがに剣を手に立ち上がらざるを得なくなる。

 筋書は奇しくもグレイズが愛読する『ルスランとリュドミラ』に酷似していた。

 同じ英雄譚でも騎士道物語など読まない国王であるのになんという皮肉な偶然だろう。

 さらに犯人が海賊となれば世論は王室に味方し、正義が王冠の上に輝くはずだという。

 そうなれば海賊を騙った騎士団同士の茶番――サフィーラ島の戦いは海賊団ルジアダズの耳に遅かれ早かれ届く。

 縄張りを侵されプライドを傷つけられた彼らは武力行使をする。

 こうして二つ目の目的が達成される。

 それはつまり海賊を戦に乗り出させることだ。

 睨み合うのに飽きたのかブレンディアン五世は海賊を殴るつもりなのだ。

 そして海賊を打ち倒した暁にはヴァニアス王家はペローラ諸島を救った英雄となり、大手を振って一帯を属国化することができる。

 これが三つ目の目的だった。

 ペローラ諸島を管轄下に置ければ王国の海域も広がり税収入の向上も見込めるという。

 要するに国王は王子の教育という建前の下、敵陣にて自ら誘発した戦で勝利を収め海賊団の代わりにペローラ諸島を支配するつもりなのだ。

 一応反対の声はあったようだ。

 けれど覇道を行きたがる国王を誰も止められなかった。

 なんて利己的でなんて恐ろしいことにわたくしは加担してしまったのかしら。


「……グレイズ様……」


 マルティータが体を震わせたその時、かちゃりとドアが大きな音を立てた。


「お嬢様」


 マルティータが驚いて振り向くと、小さなランプを手にした寝間着の侍女が入ってきた。

 明かりが赤く照らし出した侍女の顔で眉が傾いている。その下の琥珀色の瞳が金色に輝いた。


「申し訳ございません。お返事がありませんでしたから」


「いいのよ、イーリス」


 イーリスは檜皮色(ひわだいろ)の頭を下げながら深々と膝を折ると古びたテーブルの上にランプを置いて、代わりに窓を閉じてくれた。


「お前、やはり部屋には戻らなかったのですね」


 (とお)年上の侍女は、こと仕事に関して生真面目すぎるきらいがあった。


「はい。お嬢様が心配で」


「お前もドーガス卿のこと、心配でしょう。嫁入り前に大変なことに巻き込んでしまって」


 そう、ドーガス子爵家のユスタシウスとエンザーティア伯爵家のイーリスは、一年前の御前試合で出会い、清く正しい交際を経て婚約していた。

 姉のような侍女の恋路を逐一聞いていたマルティータが、自身の婚約をきっかけに勧めた。

 家柄に差があるとイーリスの父は反対したが彼女は家を捨てる勢いで説き伏せたのだという。


「ユスタシウス様は素晴らしくお強いお方です。わたしの認める殿方でございます」


 彼女はそっとカーテンを閉めると、小走りでマルティータの手を取った。


「お嬢様、イーリスは知っています。しばらく、ぐっすりとお休みになられていないことを。イーリスはわかっています。ご無理をなさっておいでですと」


 覗き込んでくれる瞳の色は暖かい。

 実の姉のような優しいその視線は今は目の毒だった。

 マルティータは視線を合わせまいと、つんとする鼻ごと顔をそらした。


「無理だなんて、そんな……」


 微笑みのために口元を緩めたつもりが、ほろりと熱いものが頬の上を転がり落ちていった。

 口の端から入り込んだ塩味を理解するやいなや、涙が次から次へと溢れてきた。


「お嬢様……!」


 イーリスは悲痛な顔でマルティータを抱くと彼女をベッドの端にいざなって座らせてくれた。

 隣に寄り添う侍女の手にはいつの間にかハンカチーフが握られていた。

 それをマルティータの頬にそっとあてがい涙を柔らかく拭ってくれる。


「おいたわしや」


「イーリス。わたくしは選択を誤りました。あんなに恐ろしくて悲しい思いをするだなんて、想像がつかなかったのよ。計画を知っているわたくしでさえそうだったのですから、グレイズ様なら、なおのこと」


 しゃくりあげる王太子妃を侍女が抱いて腕をさすってくれる。


「この大仕掛けな劇も間もなく終わりましょう。王子殿下が勇気の剣であなた様を救い出されれば――」


「でも戦は本物だわ! 例え味方同士が剣を交わらせようとも。わかっているの。国王陛下は戦争を仕掛けておいでなのよ」


 マルティータは震える腹を押さえながら言う。


「どうしましょう、イーリス。戦争であの方を失ってしまったら! 陛下はそんなこと、夢にも思っていらっしゃらないようだけれど、可能性はあるのよ。よくしてくれたサフィーラの民だって! あなただって!」


 マルティータは昂ぶりのままイーリスに抱きついて泣きじゃくった。


「嫁ごうとも、死神が訪れようとも、このイーリス、お嬢様のお側におりますわ」


 落ち着くまでのしばらくの間侍女の胸を借りた王太子妃は浅い呼吸もそのままに立ち上がった。

 頭がぐわんぐわんと痛む。


「少し、涼んでくるわ」


「ご一緒いたします」


 と、かいがいしく言うイーリスに首を振った。


「独りになりたいの」


 イーリスのランプから火をわけてもらったランタンを手に古めかしい石造りの廊下に出る。

 宵闇が頭を冷やしてくれる。

 足元に敷かれている真新しい絨毯を踏みしめながら散策しているうちに外が見たくなって見張り台を目指すことにした。

 それにもしかしたらやってくる〈栄光なる王子(プリオンサ=グローマ)〉号が見えるかもしれないわ。

 ほんの小さな子どもじみた希望がうち沈む心に芽生える。

 暖かく前向きな心持ちになれそうな予感だ。

 その時どこからともなく音が聞こえた。

 よく枯れたヴィオラ・ダ・ガンバのような少しくぐもった音だ。


「マルティータ」


 それが人の――少年の声だと気づくと少女の背筋が凍り足が止まった。

 ぞっとした拍子に振り返りランタンを突き出す。

 だがあたりには誰もおらず廊下の奥には永遠のような闇がぽっかりと口を開けているだけだ。

 いつしか涙はすっかり引いていた。

 立ちすくむマルティータの耳にまた同じ声が聞こえた。


「マルティータ、助けて」


 しゅるしゅると弓が弦を掠めるような弱々しい声に首を回すが誰もいない。

 少女は確信した。彷徨える霊魂(スィエル)だわ。そう思えば少しほっとする。

 生者の命を脅かすのは生者であると主人である神子姫ミゼリア・ミュデリアが常々教えてくれていたからだ。

 でも。

 少女は訝しんだ。

〈ギフト〉のないわたくしにどうして霊魂(スィエル)の声が聞こえるのかしら。


霊魂(スィエル)のささやきが自分への語りかけならば、耳を傾けることよ」


 自分には無縁だと思っていた神子姫の助言が急に現実味を帯びはじめる。


 マルティータは緊張に張り詰めていた喉で深呼吸を一つしてから口を開いた。


「わたくしはここよ」


 前後に伸びる廊下、両端に鎮座する闇の中に少女の声が飲み込まれる。

 心臓が鼓膜のすぐやってきたかのように鼓動が大きく聞こえている中、耳を澄ます。

 そうしていると風に乗ってまたあの声が聞こえた。


「こっちへ」


 静かな問答を繰り返し進むうちにだんだんと声の輪郭がはっきりしてくる。

 声が遠ざかれば誤りで近づけば正解だ。

 そしてマルティータはある部屋へとたどり着いた。

 少女が歩みを止めたのと同時に扉が開く。


「マルティータ」


 そこには真夜中にあっても自ら光り輝いているプラチナブロンドをもった子どもがいた。

 少女のような美少年だ。

 顔立ちや服装はヴァニアス人ともペローラ人とも異なる。


「待っていたよ。さあ、入って」


 彼だ。

 同じ声音にマルティータが驚いて何もできずにいると、少年は彼女の手を取って強引に引き入れ扉を閉じきった。

 煌々とした明かりに目を慣らしながら屋内を見回すと近くの寝椅子に女が寝そべっていた。

 ほっそりとした彼女は腹だけが大きく膨らんでいて眠る息は見るからに浅く苦しそうだ。

 そして驚くべきことに女の髪はウィスティリアの花と同じ淡い薄紫を湛えていた。

 花のように美しいひと。


「姉さん、マルティータが来てくれたよ」


 マルティータが見惚れているうちに少年は膝をついて女の汗を拭った。

 ちらりとよこした彼の視線は髪と同じ黄金色だった。

 縦長の瞳孔が黒々として深い。


「ありがとう。僕の声を聞いてくれて。迎えに来たかいがあるよ」


「あなたはスィエルなの? その方を助けたかったの?」


 マルティータは少年の隣で彼の姉に向かって屈んだ。

 船には同乗していなかったはずだけれど。

 少女は首を傾げた。それに名前も。なぜ?


「端的に言うとそう。さっきといい理解が早くて助かる。本当に君は人間なのかい?」


 一瞬むかっとしたけれど彼の飄々とした調子に煽情の意図はなさそうなので飲み下す。

 青ざめた妊婦の手前落ち着いてしかるべきとも思った。

 女のおぼつかない脈拍を取りながらマルティータは改めて室内を見回してみた。

 医療道具の一つもないただの質素な部屋だ。

 ひ弱な少女の腕では地階の台所から二階のここまで新鮮な湯を持ち込むのも難しい。


「村から産婆を呼んできましょう。わたくしの侍女を使いにやるわ」


「いいや、まだ。その時じゃない。グウェンは身籠もってまだ五ヵ月しか経っていない」


「それで、こんなに大きくなるものなの?」


 少女は驚いた。

 マルティータが通読した『女性の病に関わる書』に書かれていたことと辻褄が合わない。


「それに、そうだとしても今は危ない」


 そのうちグウェンと呼ばれた女の脈動がしっかりとしてきた。

 とくんと指の腹を打つ力強さに驚いて見るとマルティータの手から香の煙のようなものが細く流れ出していた。

 そして指先が湯上がりのようにほかほかと温まってきた。

 思わず手を引いて揉むと金の指輪が鮮やかに光った。


「渡りに船とはこのことか」


 少年が、初めてにこりと笑った。


「この指輪は魔法道具だったのね」


 マルティータは独りでに納得すると妊婦のむくんだ小指に金とルビーでできた指輪をはめてやった。

 真っ赤な宝石に神秘の力――血の気を取り戻させる効能があっても不思議ではない。


「君のお陰で少し持ち直せた。これで僕の〈ビュロウ〉まで戻れるだろう。君、よかったら僕たちと一緒に来てくれないか。僕たちも人間のお産をよくわかっていないし」


 さきほどから不思議な物言いをするものだと思いながらマルティータも割り切って問うた。


「喜んでお手伝いをしたいところだけれど、グウェンのご主人は?」


「あいつは今いないよ。だからチャンスなんだ」


 少年が不愛想に吐き捨てたのにマルティータは再び驚いた。

 お姉様を取られて感傷的になっているのね。

 マルティータがそっと思う横で少年は続けている。


「あいつは心を閉じている。わかっていないんだ、どうして僕が降りてきたかを。それにこのままじゃ姉さんも子どもも死んでしまうってことも」


 物騒な発言にマルティータは思わずすくみあがった。

 愛しあった二人が愛の結晶に恵まれようというところで引き裂かれるだなんて!


「それは誰? この大変な時にどうしていないの? 呼んでくるわ――」


「いい、キールヴェクなんか」


 マルティータは、はっとした。

 それは彼女をさらう役目を演じた魔術師の名前と同じだった。


「あの方は魔法薬を作れないの? こんなときに何をしているの?」


「それこそ、僕が聞きたい」


 無責任にもほどがある、とマルティータは憤慨した。

 彼の姿は数日前から見ていない。

 言い方は悪いが、与えられた道化役だってまだ果たされていないのだ。

 それに加えて戦地になるかもしれないところへ身重の妻を連れてくるだなんて!

 弟の苛立ちももっともである。

 その時、マルティータの身体が揺れた。

 大きな音もしなかったのに、なぜ?

 一瞬、勘違いだと思い気を取り直したところで、また一回。

 おかしい。

 ここは船ではなく城だ。

 揺れるはずがないのだ。

 次の瞬間、先程の悪実の光景が目に浮かんだ。

 燃える村、木の匂い、人々の悲鳴、傷ついた子どもの泣き声、そして黒くおぞましい純粋な悪意。


「エウリッグ……」


 妊婦が身じろぎし瞳を開けているうちに、その弟は窓辺に駆け寄って身を乗り出した。


「これは何事ですか!」


「そうか、あの馬鹿!」


 二人が叫ぶのはほぼ同時だった。


「火の手が上がってる! 奴らがこっちに来るのも時間の問題だろう。キールの奴、馬鹿だとは思っていたけど本物の馬鹿だなんて! 姉さんの恋人で無けりゃ、食いちぎるところだ!」


 少年のプラチナブロンドが闇の中で一瞬白い炎のように燃え上がって見えた。


「奴ら?」


「海賊だよ! あいつが呼んだんだ!」


「まさか。シュタヒェル騎士でしょう?」


「違う。僕らを狙っている。逃げるよ、姉さん!」


 急ぎ戻ってきた弟はマルティータの問いを無視し、寝ぼけている姉に右肩を貸している。

 苦しそうに喘ぐ彼女を支えにマルティータも左肩を貸す。


「ありがとう、マルティータ」


 なぜ彼らが名前を知っていたのか尋ねる暇は今の少女にはなかった。

ここまで読んで下さりありがとうございます。続きが気になってもらえたら「いいね」を、楽しかったらぜひお友だちにも教えて下さいね。書籍版のお求めはこちら→https://961cocoanna.booth.pm/items/2286387

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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