9、金色の姉弟(1)
〈白羊の月〉二日、十六歳の幸福な花嫁にして不幸なる人質の王太子妃マルティータは、魔術師キールヴェクの船に乗せられ、ヴァニアス島から西のファーラシュ海に点々と浮かぶペローラ諸島の東端サフィーラ島へと護送されていた。
あらかじめ聞いていた通り、船団はシュタヒェル騎士だけで構成されていた。
航海術についてはこの数年の訓練が結実しているらしく危なっかしさはない。
騎士たちは浅縹色の騎士団の制服に代えて乗組員の装いをしている。
さらした麻でまとめた身なりは小綺麗で舞台衣装のよう。とても海賊には見えない。
その点、雇われの魔術師は真に迫っている。
濁りきった闇色のローブはぼろきれ同然だし、その下のシャツも黄ばみを通り越してまだらの茶色。
髪は本来の色がわからないほどで、毛先まで皮脂がこびりついて絡み合って紐のようになっている。
白い無精髭を蓄えた浅黒い肌も、日焼けか長年の汚れかもわからない。
つまり、彼は悪臭の塊だった。
雪解けの日差しに喜ぶ春の畑の肥やしや、家畜小屋の比ではない。
聞きしに及ぶ腐乱臭に似ているのかもしれない。
日頃、清潔に保たれている馬小屋のほうがずっと良く思えるほどだ。
マルティータがさらわれる際、不可抗力で近づいたときにらその異臭と雰囲気から老人だと思ったものだが、話に聞けば二十歳を過ぎたぐらいでたいそう驚いた。
「ドラゴンにさらわれた――ことになっている――魔術師の奥方のお気持ちがわかりますわ。逃げる機会があるのなら喜んでそういたしますもの」
と、マルティータの侍女イーリス――彼女も筋書を知る一人で先んじて船で待機してくれていた――が鼻に皺を寄せるのも無理はないと思えた。
眉目秀麗、高潔と潔癖を体現するエンザーティア伯爵令嬢の彼女に言わせれば、不潔という言葉が肉体を得たというところか。
しかし公女は彼を憎めずにいた。
「お姫様、怪我はない?」
役者の一人である魔術師は台本が終わると一転おどおどと心配してくれた。
凄まじい口臭に表情を凍らせながら頷く。
「え、ええ……」
「怖かったよね。矢、あんなに打たれるなんて聞いてなかった」
「だから、蔦で檻を? わたくしを守ってくれたの?」
「うん。怖いのは、怖いから……」
優しい言葉、思いやり、そして他人事を我が事のように思いしょぼくれる姿に、世界一愛しい夫が重なる。
今すぐにでも会いたい、彼のことを思うとマルティータもしょんぼりした。
同時に気が進まないこととはいえマルティータは少しわくわくしてもいた。
なにせこれは初めての船旅なのだ。
公女の出身地、ダイヤモンド形のヴァニアス島の北東側、サンデル公爵領〈湖水地方〉の都ラズ・デル・アニルからはいつも陸路で上京した。
馬車でノルド街道を南下しルンタ連峰を越えたほうが聖都ピュハルタに近いからだ。
海路は端から頭にない。
東端のベルフヤルザ半島の古城アマネセールは、城主亡きあとうち捨てられたきりで交通の要点としてはまったく機能しておらず、使えたものではないのだ。
これはマルティータにとって二度とないチャンスだった。
山の頂上から見下ろし思いを馳せた青い水平線の彼方に近づけるかもしれない。
本に読んだ英雄たちの冒険を自分も体験できるかもしれないという旅への期待で恋人と離れたさみしさを覆い隠してマルティータはガレオン船へ乗り込んだのだった。
だが若き貴婦人は味わったことのないトラブルに次々と見舞われた。
船酔いに始まり、小さな嵐、揺れる船内での食事やハンモックなど、船での生活は夢見た以上に過酷だった。
マルティータが特にストレスを感じたのは、常に誰かが起きていて足音が天井から床、薄い壁のあちこちから響くこと、そしてまったく一人になれないことだった。
ガレオン船の航行が二四時間絶え間なく人の手で運営されているとは知っていたし、船内の女性がマルティータとイーリスのたった二人しかいないので必然的に同じ部屋をあてがわれるとも承知していた。
それにしても、城の窓のひと枠よりも狭い床面積の部屋の中に居続けることがこんなにも苦痛で眠る時間にも廊下から聞こえてくる男たちの声があんなにも騒々しいとは思わなかった。
大好きな読書で気を紛らわせようとしたが船酔いを加速させるだけなのも苦しいところだ。
雑音だらけの船の中、ハンモックに身体を預けるしかできない新妻は置き去りにせざるを得なかった恋人――これから同じ苦痛を味わうであろうグレイズを思った。
***
ヴァニアス島を離れて七日が経った〈白羊の月〉九日。
サフィーラ島に着いたマルティータ一行はラ・ウィーマの住人およそ数百人に歓迎された。
暖流の影響だろうか、春を迎えたヴァニアス本島よりも空気が暖かく感じられた。
マルティータがよろめきながら降り立つと、人々の最前列に待機していた若い娘たちが一歩進み出た。
生成りの麻でできたさっぱりとした服を身につけた彼女たちは、手にしていた花束を王太子妃へ恭しく差し出した。
爽やかな甘い香りに心が洗われる。
その目の冴えるような橙色の花はロコスミアだった。
大きなゆりかごでの生活に慣れてきた矢先の上陸で今度は陸酔いの頭痛を感じていた。
けれど、小さな娘たちの日に焼けた頬が気恥ずかしそうに、そして誇らしげに持ち上がっているのに心を打たれ、微笑みは浮かべずとも滲んだ。
「みなさん、ありがとう。ほんの少しお邪魔させていただきますね」
ラ・ウィーマの人々が二つ返事で色よい答えをくれたというのは本当だったらしい。
このたびの計画を村おこしの一つと捉えてくれたのかもしれない。
ペローラ諸島は元々、島そのものを一つの町とし、数珠つなぎの島々がファーラシュ海を囲うようにゆるく繋がっている自治体である。
まだ国の体をなしていない。
住民のほとんどは自給自足で生活ができているが、近年外貨を欲しているとも聞く。
これにもルジアダズ海賊団の動きが関係しているのだろうか。
いずれにせよマルティータの知らぬところで国王ブレンディアン五世と村との間に金のやりとりがあっても不思議ではない。
「お嬢様は長旅にお疲れです。また後日、時間を」
訝しむマルティータの様子に不調を見て取ったイーリスの鬨の一声で、一行はサフィーラ島唯一の砦ペデスタル城へ移動した。
借り受けたそこには城主も管理者もいなかったが、あっという間に人間でいっぱいになった。
城が人々の住まいとして蘇ってゆくのを目の当たりにしてマルティータは在りし日の姿に思いを馳せた。
きっとここも商人や船乗りの貴重な補給地だったのでしょうね。
着替えや石鹸、化粧品など、少女の生活道具は侍女の手であらかじめ用意され船に積み込まれていたので、辺境の島でも快適に過ごせそうだった。
石鹸のよい香りに微笑んだマルティータはそれを一つ手に取ると魔術師の姿を探した。
だが、誰よりも悪目立ちしている男はいつのまにか消えていた。
***
それから三晩を過ごした〈白羊の月〉十二日。
ラ・ウィーマの村が赤く燃えていた。
そこで少年が一人絶望に立ち尽くしている。
長身痩躯の薔薇の王子だ。
マルティータが見間違えるはずがない。
ひとりぼっちの彼の背後に黒い影が迫る。
燃え盛る家々の立てる轟音で彼は気づいていない。
空を焼く強大な黒い炎はやがて竜の姿をとり、その足元から片足の男が剣を振りかぶった。
「グレイズ様!」
揺れぬ寝床でマルティータはうなされながら目覚めた。
心臓が早鐘のように早くどきどきとうるさい。
後頭部が湿って気持ちが悪いし枕は濡れてびしょびしょになっている。
寒気に身体を起こすと風を直に感じた。
みればカーテンが月光にその身を透かして膨らんでいる。
窓が開けっぱなしになっていた。
花と鳥の喜ぶ春とはいえ夜風は冷たくて冬の名残がある。
侍女イーリスはお休みの言葉と共に下がらせていたので今は部屋にはいない。
彼女にも休む時間が必要だが用心深いイーリスのこと戸口のすぐ傍に控えているだろう。
しかし呼ぶのは憚られる。
マルティータは手近にあったショールを身体に巻き付けて窓辺に向かった。
窓の外、昼間には空と海の鮮やかな青に染まっていた景色が今は闇色に包まれている。
星々の褥である夜空の、深く穏やかな漆黒はグレイズの髪を想い出させる。
短く顎筋で切りそろえたそれの薔薇の香りまでも蘇ってくる。
その奥に潜む彼からしか感じられないうっとりとするような甘く暖かな男性の匂いまでも。
しかし、夢の中で絶望に顔を歪ませていたグレイズこそが現実の姿であるともわかっていた。
グレイズ様は混乱していらっしゃるはずだわ。
きっと今も、とても。
マルティータのため息が落ちていった眼下には、城の足元に光の粒が点々と灯る。
そこにいる人々のささやかで幸せな暮らしを彷彿とさせる。
近海を本物のルジアダズ海賊団が闊歩しているとは思えない静けさだ。
本当にバカンスに来たような錯覚さえ憶える。
ここにグレイズ様がいらっしゃればどんなにいいかしら。
優しい夫の代わりに少女は自らを抱きしめた。
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