第5章 32(藤(マリア))
藤はたまたま、飴を買う由迦を見つけたが、気がつくと他人のように通り過ぎていた。何となく、話しかけない方が良い気がした。
優しく、おっとりしている由迦だが、べたべたと絡まれるのが苦手な様子がある。藤も元からロンテのように賑やかな性格でもないから、例え今話しかけたとしても、盛り上がらないかもしれない。
市場は、広いのに狭い。それでも、一日ここにいても飽きることはないだろう。
虹を縦に切り取ったような、色とりどりの反物を並べた店があった。その隣に、やはりありとあらゆる色の糸を売っていた。笛を吹く美しい女が、見たこともない形の太鼓や弦楽器、手のひらにのるような楽しい水笛まで、地面に広げた敷物の上に陳列していた。化粧をばっちり決めた人間の顔を模した太鼓を指先で叩くと、店主がにこにこと笑いながら、ジャワから仕入れてきたものなのだと教えてくれた。
巻物や洋綴じの書物の店では、長いひげの老人が大きな筆を見事な速さで振るっている。よくよく見ていると、彼の前でべらべらとしゃべっている立派な出で立ちの男がいた。彼の言うことを老人が全て書き留めているらしい。その老人の頭上につり下がっている筆の数は優に百を超えているだろう。
耳かきや爪のやすりといったつまらない品物から象牙を薄く彫った珠まで、どんな物でも目移りしてしまう。
子どもたちが集う一角に近寄ると、見知った奴が客の中にいた。手を伸ばし、彼女の肩を叩いた。
「あら、藤じゃない」
千暖だ。地面に敷いた筵の上に正座する彼女は、決まり悪げに藤を見上げ、頭をかいた。
「何やってるの? 千暖」
「人形劇」
「何だって?」
「子どもの見る物だけどね。意外と面白いんだ」
千暖に手招きされ、藤も筵に膝を寄せた。丸い舞台の上に、ひょうきんな顔の人形がとことこと姿を現した。
「人形劇の一座がね、河内からわざわざここに来たんだって。滅多に見れない興行らしいわよ」
「へえー……」
黒い頭巾を被った人形使いが、よく響く深みのある声で語り出した。
「__しかして、順化は再び阮氏の手に戻り、民に平和が訪れた」
拍子木が鳴り、人形にお辞儀をさせた。藤は自然に拍手を送っていた。音楽を担当していた少年が、鉄のお椀を恭しく差し出した。
「うん、面白かった」
銅銭をお椀に投げ込み、藤は千暖に言った。
「ああやって芸をしながら国中を回るのも、悪くないね。歌う奴と、人形師に分かれて」
「いいわね。ノアの方舟とか」
軽口を叩いた千暖が、ふと空を見上げた。
「まだ時間はたっぷりあるね。お金はなくなっちゃったけど」
「散歩でもしてくるよ。千暖はどうする?」
藤が誘うと、千暖も快活に応じた。
三本の飴を持ってぼんやりと歩く由迦をまた見つけ、今度は千暖が大声で彼女を呼んだ。駆けてきた由迦は、藤が思っていたより嬉しそうだった。
「飴買ったの?」
「うん。一つはロンテの、もう一つは私の分」
「もう一つは?」
由迦は、自身の右手の三本に目を落とし、困ったように眉を下げた。
「……秀に、と思って」
「え?」
うっと声を詰まらせた藤の隣で、千暖が明るく言った。
「いいじゃない。秀もきっと、喜んでるわ」
藤もつられてうなずいた。曇っていた由迦の顔がほころんだ。
「ところでさ、由迦も一緒に散歩しない?」
千暖には叶わない。彼女の前には、人との間の壁など存在しないかのようだ。怜に一番気を砕いていたのも彼女だった。
由迦は「行きたい」と小さな声で答えた。藤は由迦と千暖の手を取った。




