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第5章 26(ロンテ(セシリア))

 随龍の部下が馬に一鞭当てた。屋根の上のロンテは、縁をしっかり掴んで揺れに備えた。見下ろすと、人の頭の天辺ばかりがよく見えた。心地よい風が頬を撫でる。

 どこからか鐘が鳴ると同時に馬車が進み始めると、混み合っていた人の群れがさっと避けて道を作った。聖書の中のある挿話を思い出す。

 馬車の中にいる随龍が、馬を操る部下に指示する声が微かに聞こえてくる。その大部分を風と車輪の音がかき消した。

 これから誰と何の取引を行うのか、ロンテは知らない。華僑の商売に興味はあるが、自分が同席させられる理由は分からない。

 ロンテは、自分が優秀な人間であることを知っている。学校での成績は飛びきり良かったし、歌も上手い。誰とでも仲良くできるし、手先も器用だ。聖歌隊のまとめ役として訓からも期待されている自負があった。

 ただし、この誇りがクレティアンテの中でのみ通用することも知っていた。

 順化や嘉定に出れば__いや、一歩クレティアンテを離れさえすれば、自分より秀でた人間が山ほどいる。膨れ上がった自尊心は針のような現実にちくちくと刺され、やがて身の程を知ってしぼんでしまうのだ。ロンテより特別な身の上で、ロンテより賢く、音楽の才能があり、何でも出来る人間なんて__世の中に溢れている。 

 ロンテがクレティアンテで幅を利かせられたのは、カンボジア生まれがたまたま社にいなかったから。社の皆が外の世界をほとんど知らず、のほほんと生活していたからだ。

 戦火の中を死に物狂いで逃げ回った経験を持つロンテは、コーチシナに移ってきた当初から焦っていた。早く大人にならなくては。上手く立ち回らなければ。さもないと、あっという間に命を落としてしまう。有能でなければ、共同体から弾き出される。人気者にならなければ、生きていられない。暗い未来への恐怖に急かされていたから、大南語をあっという間に覚えた。たまたま居着いたのがキリスト教徒の社だったから、聖書が何か知らないうちに洗礼を受けた。(元々彼女の家族は仏教徒だった)

 信徒たちのクレティアンテは居心地が良かった。カンボジア人のロンテに同情的だったし、一般信徒は祈るばかりで他人を蹴落とす気概もない。ここでなら簡単に強くなれると幼いロンテは思った。養父母に苛められても、いつシャムや大南が攻めてくるか分からないカンボジアで怯えながら暮らすよりどんなに楽か。

 だけど、クレティアンテでの暮らしはもう終わった。

 戦から逃げてきたはずのロンテを追いかけるようにやってきた戦は、ロンテたちを深く巻き込んで暴れ回った。カンボジアでの戦と違うのは、ロンテが生き生きと立ち回れたことだった。

 聖歌隊の仲間たちが戸惑っている時も、ロンテはさっさと自分のなすべきことに向けて動くことができた。戦がどんなものか分かっていたからだ。樹上を駆け回って反乱軍のお使いをするのも、罠を仕掛けて宮廷軍を引っかけるのも楽しかった。特に、訓と結託して大龍の心臓を奪った時なんか、人生最高といえるくらい気分が高揚した。自分は戦える。そこらへんの大南人よりもよっぽど役に立ってる。

 秀が死ぬまでは、そうやって喜んでいた。

 彼の死が、ロンテに思い出させた。戦で何が起きるのか。ロンテが故郷を捨てて憎いはずの敵国に逃げてきたのは何故か__すっかり忘れていた。思い出そうともしなかった。

 友が死ぬ。家族が死ぬ。家が、今までの生活がなくなる。

 生ぬるいとすら感じていた穏やかな日々は、もうロンテには戻ってこない。

 嘆きはしない。ロンテは強いから。聖歌隊の代表になろうという気負いが、彼女の涙を乾かした。せっかく見つけた居場所を失っても、彼女は図太く生き抜いて見せる。かけがえのない仲間たちを連れて。

 今は、一人だけ商人に連れてこられたという事実が、ロンテの誇りをくすぐっていた。私だけ奴らに認められている? それとも、何か別の思惑がある?

 馬車が止まった。大きな屋敷の前だ。馬車から飛び降り、麻袋や木箱を下ろすのを手伝った。油断するとにやついてしまう口元をうつむいて隠し、横目で華僑たちの様子を窺った。随龍の部下たちはてきぱきと働きながら、興奮してしゃべくっている。話の内容はさっぱり分からない。大南での生活が長い華僑たちだが、仲間内の会話には中華の言葉を用いているのだ。

 荷物をすっかり下ろした後、随龍がのったりと顔を出した。そして、ロンテに言った。

「クメール娘だけついてこい」

「あ、はい」

 ロンテは思わず、自分の顔を撫でた。クメール娘、クメール娘と呼ばれるのは嫌ではないが、ひやひやする。カンボジアに良い印象を持っていない大南人は多いはずだ。

 だから、邸宅の豪奢な扉を叩く随龍にこっそり囁いた。

「私のことはロンテと呼んで下さい」

 随龍がこっちを向いた。

「ロンテだと?」

「ええ」

 扉が開き、出てきたのは屈強な浅黒い肌の男だ。随龍とロンテを見下ろし、また扉を閉めた。

 随龍は全く動じない。悠然と、巨体を揺らして佇んでいる。

「生まれはどこだ、ロンテ」

「シェムリアプです」

「ほお」

 随龍は息を吐いた。

「ハティエンから逃げた後、シェムリアプからバッタンバンまで移り住んだことがある。

二十年以上前のことだがな」

「そうなんですか。……昔はどんな所だったんですか?」

「今も昔も変わらんよ。戦ですっかり荒れ果ててしまった国だ、カンボジアは」

 随龍はそう静かに言った。「シャムと大南に挟まれて、逃げ場がない。その上、阮福暎やターク・シン のような英雄が出ないから、いつまでも国政が安定しない」

 彼の声に侮蔑や嘲りの響きはない。本気でロンテの故郷の惨状を憂いているように見える。

 取引相手とやらはまだ出てこない。部下たちは檳榔を噛みながら荷物の側に控えている。ロンテと随龍の会話は誰にも聞こえない。

「かつて畏れ敬われた深林の中の寺院も、今となっては儚い幻だ。所構わず荒らし回る異国の盗賊どもが木を切り倒し、建物は打ち壊して、財宝を盗み出した。だから、守るべきものは何もない」

「盗み出したのはあなたたちじゃないの?」

「さあな。もしかしたらそうかもしれない。そうでないかもしれない」

 その時、扉が再び開かれた。人相の悪いぎょろ目の男がぐいと頭を下げた。随龍は笑顔になり、男の手をとった。

 ロンテは、話しかけられるまで大人しく随龍の後ろにいた。背筋をまっすぐ伸ばし、立ち姿が揺らがぬよう重心に気を配った。

 屋敷の主人はこの人相の悪い男らしい。随龍に中華語で話しかけた。随龍が振り向き、部下たちに合図した。木箱と袋が運び込まれる。

 門の奥には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。離れたところにぽつんと小屋があったが、訓の家よりも大きい。変わった形の石や植木が彩を誇っていた。斑模様の巨大な猫が横切った。

「ロンテ」

 随龍がロンテを呼び、男の前に突き出した。背の低い娘を見下ろし、男は全身をなめ回すように観察した。彼女の美しい瞳を、長いつややかな黒髪を、浅黒い肌を見た。ロンテの腕を取り、指で軽くもんで感触を確かめ、腕輪から耳飾りに至るまで全て品定めしてから、ようやく満足げにうなずいた。彼の発する言葉に随龍が笑みを浮かべる。肝心の取引は、ロンテが立ち会うまでもなく既に決まっていたようで、さしたる交渉もなしに商品と金が交換された。



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