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第5章 23(子どもたち 1)


 獣道にうっそうと繁った青草を容赦なく踏みしだき、商人の隊列はひたすら歩みを進める。時折見知らぬ社にさしかかり、その度につまらない商品と食糧を交換する。人民の動きに敏感な官人も、商人の進路を妨げようとはしない。


 商隊の仲には、子どもが混ざっている。体の大きな商人たちに負けず劣らず重い荷物を背負って歩いている。列は時折ばらばらにほどけ、その度に大人から叱責が飛ぶ。


 一団の中で最も背が低く、あどけない顔の少女が、歩きながらふと顔を上げた。青空を遮る細い木の枝がたわわに実った大きな木の実を支えている。


 前にも見たような景色だと、翠瑠は思った。どこで見たんだっけ。しばし悩み、そうだ、嘉定への旅の途中だと気がついた。それからすぐに、胸が強烈に痛んだ。


 懐かしさや切なさなんて感情を彼女はまだ知らない。ただ、隠しておいた兄への悼みが血のように溢れ出す。

 彼女の隣を歩く、仲良しの少女が労るようにこちらを向いた。

「疲れてない? 翠瑠?」

 翠瑠はにっと笑ってみせた。「ううん、大丈夫」

 ところが、声をかけてきた本人がいたずらっぽく舌を出した。

「私はもう限界かも」

「おい、勘弁してくれよ、ロンテ」

 翠瑠の後ろで野太い声がした。「おっさんたち、当分休ませてくれそうにないぞ」

「分かってる」

 さっきは弱音を吐いたロンテだったが、ずだ袋をえいやっと抱え直し、背筋をしゃんと伸ばした。

「でもね、何かしゃべっていないと息が詰まりそうになるの。あなたは違う? 拓」

 後ろの拓__ジャンが今どんな顔をしているのか、翠瑠には分からない。だが、聞こえてきたのは不機嫌な溜息である。

「そう怒らなくても」

 ロンテは振り向きもせず拓に言った。

「違う、怒っているんじゃない。__なんかさ、まだ慣れないんだよな」

「“拓”?」

「そう、その名前で呼ばれるのが」

 翠瑠を除く聖歌隊の面子は、ついこの間まで洗礼名で呼ばれていた。ロンテはセシリアで、拓はジャンだった。慣れ親しんできたのは西洋風の名前だったため、拓はまだ違和感を覚えてしまうのだろう。翠瑠だって、彼らの本名をこの間初めて知った。今でもまだ、半分しか覚えていない。


 ジャン英和ミゲル志毅トマスマリア千暖カトリーヌ由迦アンヌ、ロンテ(セシリア)。そう訓に呼ばれた後、聖歌隊の中でも話し合った。洗礼名で呼び合うのは楽しかったけれど、これから行く初めての場所ではあまり使わない方がいい。キリスト教徒だとばれたらどんな目で見られるか分からないのだ。


「拓って呼ばれると、オレだと分からない時がある」

 ロンテがそれに返事をしなかったので、やや気まずい空気が流れた。

 彼らを洗礼名で呼んだ大人たちは、もう近くにはいない。拓がどんな汚い言葉遣いをしても、千暖が髪を派手に結い上げても、由迦の声が小さくても、叱る人はいなくなってしまった。多分、気楽になったと喜んでいいはずなのだ。先生は__離れてみて実感したのだが__神経質なほど礼儀作法にうるさかった。他の司祭やカテキスタはもうちょっと放任主義だったはずだ。

 けれど、戦場を離れてから、皆同じことを言い合った。

『寂しいね』

 由迦がそう言葉に出した時、ロンテは殊更に明るく笑い飛ばした。今は惜しむべき時じゃないと分かっていたからだ。

 ついこの前まで彼らは死からごく近い場所にいて、今もその周縁をふらふらとさまよい歩いている。戦線を離脱したとはいえど、まだ世間知のない子どもたちにとって長旅は危険が詰まっている。

 翠瑠は、それきり黙ってしまったロンテをちらちらと窺いながら歩く。足下に違和感を覚え、片足を上げると、足の裏に潰れた甲虫が張りついていた。ちょっと顔をしかめ、履き物を地面にこすりつけるようにした。

 社にいて家族の庇護の下ぬくぬくと暮らしていた、あの頃の翠瑠だったら……きっと甲高い悲鳴と共に飛び上がっていただろう。

 前方でおおっとどよめが上がった。緑の視界がぱっと開け、訝る間もなくその理由が分かった。歩きにくい獣道は抜けたようだ。子どもたちは自然に集まり、目の前に広がるのは、慣れ親しんだ森の中の社とは全く異なる景色である。毒々しい色の蛙が視界の隅を跳ねて行った。ちょろちょろと流れる小川をよく見ると、ごくごく小さな魚が無数に泳いでいた。

 莫随龍が子どもたちを小声で罵った。慌てて列に戻り、何もなかったように歩き始める。随龍は大抵にこやかだが、ある夜へまをした手下を無言でむち打っているのを見てから、すっかり怖くなってしまった。興奮すると異国の言葉で罵り始めるのも不気味だ。

 志毅が袋を担ぐと、ガラガラと大きな音がした。麻布ごしの感触からして、固い玉が沢山中に詰まっているらしい。砲丸でも運ばされているのかと怖くなった。

広い道を悠々と歩けるとなると、ロンテたちは嬉々として横並びになった。お互いの顔が見られるのが嬉しかった。ささやかだけど。

ロンテと翠瑠を、英和や藤が囲む。

「何かしゃべろうよ」

 翠瑠がねだると、英和がへらりと笑った。「翠瑠は元気だなあ」

「英和くんは、歩くので精一杯?」

「まあね。もうへとへと」

「私の荷物と交換してあげようか」

 藤が、抱えていた小さな木箱をみせた。英和は慌てて首を振る。

「もう少し頑張るよ」

 真面目なのだ。藤が溜息をついた。

「あんまり無理すると、後が辛くなるよ。長い旅なんだから」

「でももうすぐ休めるよ。日が沈むから」

「休憩が何回来ても、終わりがない旅だからね」

 ロンテが口を挟んだ。

「あら、マリアはそう思うの?」

 藤は苦笑した。

「その名前はもういいわ。……目的がない旅には終わりもないでしょう」

「目的ならあるわ。誰にも見つからない楽園に着けば」

「夢物語よ」

 藤は冷ややかにそう言った。翠瑠が思わずすくんでしまうほどに。

「で、でも、先生がそこを目指せって言ったのに」

「先生は願望を口にしただけ。楽園が本当にあるかなんて分かりっこないのに。だから腹が立つ」

 翠瑠は唖然として藤を見た。まっすぐ前を見据える凛々しい少女は、頑なに表情を崩さず、決して足取りを緩めない。楽しそうではない。けれど、つい呑まれてしまいそうな覇気をみなぎらせている。

「藤は先生が嫌いだっけ」

 ロンテが首をかしげた。華僑の一人がちらりと振り返る。彼に向かって藤は冷淡に会釈し、会話から締め出した。

「嫌い__かもね」

 彼女は迷いながら口に出す。

「先生としては尊敬している。ただし、あの人の言うことが全て正しいとは思わない」

 後ろでわいわい話していた由迦や千暖が静かになった。

「司祭だって判断を誤ることはある。だけど、最近の訓先生は失策続きだと思う」

「そんなことないだろ」

 反論してきたのは拓だった。藤はふんと鼻を鳴らした。

「多分、本人も分かってるよ。強弁で私たちを抑えつけようとするのは、自信がないから。戦場から遠ざけたのは、私たちを危ない目に巻き込んだのを今更後悔したから。それに、」

 聞いていた皆が息を呑んだ。

 藤は思う。自分は、説教されて腹を立てているだけなのかもしれない。命令されるのが嫌いな彼女は、聖歌隊に加わる前から孤児の家で問題児扱いされていた。

 朝の挨拶から礼拝時の所作まで、訓には何十回叱られたか分からない。(藤だけではなく、聖歌隊は皆同じである)負けん気の強いロンテはその度に反発し、お調子者の秀はのらりくらりとすぐに忘れる。一方藤は口答えこそしないが、ぐっと口をかみしめ、きつい目で地面を睨みつけてている。そして、理不尽に叱られたことはいつまでも覚えているのである。いつか千暖が、藤を「鰐のようだ」と冗談交じりに評したことがある。泥で濁った川の水底に身を潜め、執念深く相手の動向を観察し、食らいつく時を窺っている__。

 藤は、次に言おうとした言葉を呑み込み、足を早めた。翠瑠やロンテは顔を見合わせている。彼女たちがもし、藤の考えていることを知ったら、きっと激怒する。

『秀や英路が死んだ遠因は訓にある』

 藤は知っている。訓自身がそう深く悔いていること。秀を失った悲しみに浸る仲間たちも、皆心の奥底では分かっていること。けれど、ひとたび口に出してしまえば終わりだ。歌を歌うためだけに集められた脆い結束が崩れてしまう。

 由迦や志毅の家族は、翠瑠の父母のように非信徒だ。今頃、姿を消した子どものことを案じているだろう。

 由迦たちは、もう家族には二度と会えないかもしれない。今頃彼らは殺されてしまったかもしれない。今はまだ、仲間と旅に出る非日常感に浮かれて由迦も志毅も気づいていないけれど__。

 彼らが現実に気づいた時、聖歌隊は分裂する。解散、壊滅。どんな言葉でも表現できる。自分たちの置かれている状況の危うさ、取り返しのつかなさに気がつけば、自然と一つの境地び辿り着くだろう。__誰のせいでこうなったのか。

 藤は訓が嫌いだが、訓が嫌われるのも不快だ。どうにもいたたまれない気分になる。カテキスタが陰口を叩いていると、無性に腹が立った。仲間たちが訓を過度に尊敬している様子を見ると、いつかそれが無残に崩れる様を想像して恐ろしくなる。

 だから、少しでも訓の上がりすぎた評価を下げておきたくなったのだ。

 彼女の重苦しい気分が伝染したかのように、聖歌隊は押し黙った。急に静かになったことを不審がった商人が何度も振り返った。逃げ出したのではないかと思ったのだろう。

 旅の途中に挟む休憩は、日に日に少なく、短くなっていく。分け与えられる水や食糧もだ。一日に一度、魚の干物を半切れずつ齧った。空腹に耐えかねた時、商人がキンマをくれた。かみ続けていると元気が出る木の実から出来た薬だ。けれど、あまり度が過ぎると気分が悪くなる。莫随龍は悠々と煙草をふかし、茶をすすっていた。物怖じしない英和が近づいて、随龍に茶を分けて貰った。随龍の部下たちは眉をひそめているが、当の本人は鷹揚に英和との会話を続けた。


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