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第5章 17

 旅の支度は早かった。秀の墓の前でもう一度聖歌隊と訓たちが集まり、ひっそりと別れの挨拶を交わす。もう夜だが、一刻も早く出発したいという華僑商人の意志に合わせて子どもたちも夜道を移動することになっていた。

「忘れ物はないか? 全員揃っているな?」

 暗闇の中で一人一人の頭を撫で、訓は呼びかけた。

「英和、拓、千暖、藤、志毅、由迦、翠瑠、ロンテ」

 秀の死以来、訓は洗礼名で子どもたちを呼ぶのをやめていた。

「くれぐれも……気をつけて。自分たちの命を守ることを一番に考えてくれ。願わくば、この先何十年も生きていけるような安住の地に辿り着いてくれ……」

どこからか獣の遠吠えが聞こえた。ぶるりと震える子どもたちを急かしに華僑が姿を見せた。感傷的なお別れはもうすぐ終わりだ。

「先生も、華さんも。お元気で」

 アンヌとカトリーヌ、そして翠瑠が華に抱きついた。華は抱きしめ返すと同時に、爆弾を詰めた袋を手渡していた。翠瑠は一度だけ訓の目を見て、口を引き結んだ。

 闇に乗じて、訓の腕を引く者がいる。セシリアである。他の子と一線を画した涼しげな青い衣は、カンボジア伝統の意匠だった。

「どうした、ロンテ」 

 背が低い少女は、挑発的に唇の端をつり上げた。

「その名前、もう忘れかけていました。受洗してからずっと私はセシリアだったから」

「俺は忘れたことはないよ」

「でしょうね」

 彼女は腕を握る手に力を入れた。

「私にも皆にも、随分無茶を言いましたね。知らない森の中で楽園を作れ、だなんて」

「仙人を出し抜くのとどっちが難しい?」

「どちらも変わりません。私たちなら必ず出来ます」

 ロンテは有能な娘だ。彼女が聖歌隊のリーダーだと誰もが認めている。周囲の空気を和らげる剽軽さ然り、冷静かつ大胆な判断力然り。彼女が幼少期からかいくぐってきた危機が培った経験の為せる技であろう。

 ロンテの生まれたカンボジアの村は、大南から近い位置にあったが故に虐殺を伴う侵略を受けた。彼女は命からがら逃げ出したが、家族とはぐれた末に大南の社に流れ着いた。大南の言葉も分からない幼い彼女を待っていたのは、厳しい同化政策だった。大南人の服装、習慣、言語を叩き込まれたロンテは、受洗するまでは大南人の名前を名乗らされていた。

 フランス人宣教師はカンボジアに比較的好意を持っていたから、彼女が実はカンボジア人と知ると元の名前や服装を使っても良いと許可を与えた。大南人の養父母が(これがまた苛烈な夫婦だった)強く反対し挙げ句の果てにはロンテを勘当したことから、反乱が起きるまで彼女は教会の側の孤児院で暮らしていた。

 ロンテが自分の過去について語ることはほとんどない。忘れてしまったとも、わざと隠しているともとれる。しかし、聖歌隊の中での彼女はカンボジア人としての誇りを堂々と身にまとっている。見慣れない隣国の装身具や衣は、彼女自身の強烈な個性として受け止められている。

 仙人の術が彼女に通用しなかったのは、ロンテが道教を知らないからだ。仙人を敬う精神など端から持ち合わせていない。大南の伝統習俗など、無理に押しつけられた悪い思い出しかない。

「聖歌隊を頼むよ、ロンテ。そのたくましさで彼らを引っ張っていってくれ」

「任せて下さい」 

ロンテは力強く返事をした。

「……先生。ピエトロが前に私たちに言っていたことがあるんです」

「何だ」

「僕らが何故、訓先生を慕っているのか。それは、先生が僕らをどこか素晴らしい所に連れて行ってくれるような気がするからだ。僕らの歌う聖歌が神様のところにまで届くよう、日々考えてくれているからだ……なんて。私も実は、同じことを漠然と思っていたんです。だから、些細なことで怒る先生が煙たくても、ついていこうって決めていたんです」

 だけど、それは間違っていました。ロンテはきっぱりと言った。

「先生に連れてってもらうつもりじゃ駄目なんです。先生は、歌い方を教えてくれるだけ。素晴らしい場所へは、自分たちの足で行かなきゃいけないんですよね」

 そうだとも、そうでないとも今の訓には答えられなかった。

「さよならです」

 ロンテの神秘的な色の瞳が、わずかに潤んでいた。

「いつかまた、私たちの新しい郷でお会いしましょう。一緒に、ピエトロや英路さんのための歌を歌いましょう」

 最後にもう一度訓の手を強く握り、ロンテは身を翻した。他の子たちは既に商人について歩き出していたから。じきに彼女は追いついた。彼女の軽やかな笑い声が、段々遠くなっていく。



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