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第5章 3

 敵軍の目の前を堂々と進むのは、相当な勇気がいる。そのことを、たった今彼らは知った。


 見られている。森を出た瞬間、矢にも似た視線が自分たちに向けられているのが分かる。


 二つの宮廷軍は合流し、平野一帯に広大な陣営を建てていた。見渡す限りどこまでも阮朝宮廷の紋章を描いた天幕が張り巡らされている。数十人の兵士がその間から出てきて、三人に鉄砲を向けた。


 ジャンが慌てて降伏の印である絹を大きく振った。それでも相手は鉄砲を下ろしはしない。


 イザベルの背中を冷や汗が伝う。身を寄せてくる翠瑠の肩を抱きしめ、三人はゆっくりと前に進んだ。後ろからも引き留める声が聞こえた気がした。

「いい、私たちは降伏する若い家族なのよ」

 ジャンと翠瑠がうなずく。

「喋るのは私とジャンに任せてね。翠瑠ちゃんはとにかく……可愛らしい女の子って感じを演じてて」

「演じなくても可愛いもん」

 口をとがらせる翠瑠にジャンが思わず笑った。

「イザベルちゃんとジャンくん、先生と華ちゃん。わたしには父様母様がいっぱいいるね」

 ジャンは何も言わずに翠瑠の背中に手を回した。この年で両親と引き離されても、翠瑠はセシリアたちに文句一つ言ったことがない。却って聖歌隊の方が気を遣い、戦が終わったら家族の元に帰れるよと言ってみたこともあった。

 翠瑠の両親は今、どうしているのだろう。反乱に加わるつもりのない人々は、自分たちの社に隠っていると聞いた。娘を案じながら忸怩たる思いで反乱の行く末を注視しているのだろうか。

 天幕まであと十数歩というところまで来て、三人は立ち止まった。鉄砲を構えたままじりじりと敵の兵士が近づいてくる。

「何者だ」

 問われて答えたのはジャンだった。

「反乱軍にいた者です。投降したくてここに来ました」

「名前は?」

「阮仁拓、怜、翠瑠です」

 兵士は怪しむように目をすがめた。

「投降するというのは本当か? 何故その気になった?」

「反乱を起こしても未来がないと思ったからです」

 イザベルが堂々と答えた。

「キリスト教徒か?」

「いいえ……」

「そうです」

 否定しようとしたジャンの側でイザベルが答えた。

「イザベル?」

「出来るだけ嘘はつかない方がいい。ぼろが出やすくなるから」

 兵士たちは相談していたが、やがて手招きした。

「来い。ただし、両手を頭の上まで上げてだ」

「はい」

 天幕の前で、三人は懐を探られた。

「これは何だ?」

 兵士が取り出した爆薬の袋に、ジャンの心臓は大きくはねた。

「爆薬の一部です。反乱軍から盗み出してきました。お役に立つと思って」

 イザベルの機転にほっと胸をなで下ろす。

「なるほど、預かっておこう」

「待って下さい。扱い方は私たちでないと分かりませんわ。ちょっと雑に振っただけでも爆発する危険物だから」

 兵士が慌てて袋を返してくる。

「西洋製の物か? 何だってそんな危ない物を持ってくるんだ!」

「反乱軍の奥の手だからです」

 イザベルの言ったでまかせに相手は納得したようだった。

「この天幕に入って待っていろ。その薬を決して爆発させるんじゃないぞ」

殺風景な天幕に残され、三人はほっと息をついた。

「潜入成功ね」

「まだまだ油断はできないけどな」

 天幕の入り口には兵士が立っている。声を潜めて三人で打ち合わせた。

「アンヌに会えたとして、あの子が私たちの正体をばらしたらどうしよう?」

「その時は、降伏したふりを彼女の前でも続けるしかないさ。敵を欺くにはまず味方から、だよ」

 イザベルの頭に、閉じ込められていたアンヌが開口一番「良かった! 助けにきてくれたのね!」と皆の前で叫ぶ様子が浮かんだ。考えただけでもぞっとする。その時は爆薬に火をつけるしかない。

 翠瑠が首を傾げる。

「わたしの演技はどうだった?」

「良かったよ。誰も怪しんでなかったみたい」

「本当に信じたのかしら。やっぱり首をはねられるなんてことはない?」

「縛られている訳でもないんだし、そうなったら全力で逃げるんだよ」

 入り口で話し声が聞こえ、二人は口を閉じた。女の声が混じっていることにイザベルとジャンはすぐに気がついた。

 布をめくって入ってきたのは、とても美しい女だった。男物の鎧を身につけていても颯爽とした身のこなしだ。碧玉のように青い瞳が三人を捉えた。

 イザベルはごくりと唾を呑む。固そうに結ばれた口元といい、周囲の兵士が敬意を払う様子といい、一筋縄ではいかない相手のようだ。

 女は口を開いた。華とはまた違う、歌うような柔らかな声音で問いかける。

「あなたたちが投降者ね。家族なのかしら?」

「はい、そうです」

 翠瑠がジャンとイザベルの腕をひしと抱いた。

「まだとても若く見えるのに、もうかなり大きい子どもがいるのね」

 イザベルに向けられたその言葉の端々に、憧憬が滲んでいるように感じた。

「あの……愛し合っているので」

「そう。いいことだわ」

 女は近づいてくる。

「あなたたちのお名前は?」

「阮怜、阮仁拓、そして娘の翠瑠です」

「あなたたちは反乱軍でも、キリスト教徒ではないの?」

「はい……?」

「少し前に捕虜とした娘さんがいたけど、洗礼名しか教えてくれないのよ」

 キリスト教徒というのは皆そうなのかしら。不思議そうに頬に手を当てる女をよそに、イザベルとジャンは目配せしあう。アンヌだ。

「まあいいわ。投降者を受け入れるには条件があります。反乱軍の中で見聞きしたことを包み隠さず話すこと。それが出来ないのならば向こうが送り込んできた間者と見なすわ」

 ジャンが身をこわばらせた。

「あの、おれたち末端の末端で、ほんの少ししかお役に立てないかもしれないんですけど」

「話してみなければ分からないでしょう?」

 女がジャンの肩を軽く叩いた。

「兵士の名前でもいいし、どこにどんな罠を仕掛けたかでもいい。どんな情報でも、金を賜るほどの価値がある」

「金なんて貰えるんですか?」

「ふふ、あなたの貢献次第ね」

「あの、」

 イザベルが割って入った。

「先に捕まったっていう女の子も、うちの情報を話したんですか?」

「ええ。少し挑発しただけで、いろいろなことをべらべらしゃべってくれたわ」

 アンヌ!

「ちなみに、その子の名前は? 知っている子かもしれないんです」

「アンヌと名乗っていたわね」

 突然、大人しくしていた翠瑠が叫んだ。

「アンヌちゃんだ!」

 ジャンとイザベルはぎくりとした。しかし、女はにこやかに翠瑠に目を向ける。

「お嬢さん、お知り合いなの?」

「うん。アンヌちゃん、わたしの友だちだよ! 会いたいっ」

「こ、こら翠瑠。あんまり我が儘言わないの」

「だって、アンヌちゃんもわたしに会えたら喜ぶと思う!」

 翠瑠は女に向かっておねだりした。

「ねえ、アンヌちゃんと一緒のところにいたら駄目? 皆一緒なら安心して、いろんなことをお話できると思うな」

「あら。本当に?」

「うん。そんな優しいお姉さんになら、何でも教えてあげる。わたし、文懐様の家来と仲良しなんだよ。その人が隠してること、沢山知ってるんだ」

 女は折れたようだった。

「いいわ。ついていらっしゃい。あなたたちもね」

 三人はこっそり微笑みあった。翠瑠の大手柄だ、やったね。

 通されたのは、奥の方の小さな天幕だった。入った途端、果物の甘い匂いがした。翠瑠がはしゃぐ。その様子を女が眩しそうに眺めているのにイザベルは気がついた。

 アンヌは、柱に縛り付けられていた。その前にかがみこんでいた女が、物音に気がついて振り返る。傍らの女とそっくりな顔だったので、イザベルとジャンは驚いた。

 翠瑠がわあっと素直に声を上げた。

「お姉さんたち、そっくりだね!」

 アンヌの前にいた方の女が、歯を見せて笑った。彼女は、アンヌに果物や料理を食べさせているところだった。

「そうよ。私たち双子なの」

 並ばれると見分けるのが難しいほどだ。わざわざ揃いの服と鎧で、髪型も同じにして。強いていうなら表情が違う。最初の女の方が取り澄ました顔だ。

 近づいてみて、更に違いが分かる。アンヌの側の女は赤い目をしている。貴重な紅玉のように。双子の女武将。まるで伝説の徴姉妹のようだ。

「紅。あなたここで何をしているの?」

 青い目の女が溜息交じりに尋ねた。

「見て分からない? この子にご飯を食べさせていたの。お腹空かせたままじゃ可哀想だから」

 ね、と紅はアンヌに笑いかけた。アンヌはおずおずとうなずき、それからやっとイザベルとジャンに気がついた。彼女の目が大きく開く。イザベルはそっと唇に指を当てた。

「アンヌちゃんだ! 会えて嬉しい!」

 無邪気に翠瑠がはしゃぐ。アンヌは何故かたじろぎ、露骨に目を逸らした。

 その間に、双子が会話している。

「今のあなたに、そんな暇があって?」

「あら、碧姉様。私はいつでも準備ができているわ。それに、この子は良い子だから気に入っているの」

「まさか、従者として連れて行くつもりじゃないでしょうね」

「太利の奴に聞いてみたけど、却下されちゃった」

「当たり前よ」

 形の良い眉を持ち上げ、紅が双子の姉に問いかける。

「それにしても、今日は随分と客人が多いのね?」

「まだ合わせて四人だけど」

「ううん。今また別の奴が旗振って乗り込んできたみたい」

「なんですって?」

 イザベルと碧の声が重なった。イザベルは慌てて口を押さえる。

「今度は? どんな人?」

「フランス人みたいな顔の男。武装した男女を連れている。でもすごく大南の言葉が流ちょうでね、私驚いちゃった」

 ジャンがイザベルの肩を引いた。イザベルにも分かっている。

「そいつらは何て言ってる?」

「取引をしたいですって。将軍に会わせてくれだなんて大それたことを抜かすから、私はこうやって逃げてきたの。わざわざ会ってやる義理なんてないものね」

「持ってきた取引の内容によるわよ」

 碧という女はじっと考え込んだ。

「風は随分こちらに吹いているようね……」

 紅が笑う。

「所詮寄せ集めの軍だから、崩れるのも早いんじゃない」

 イザベルたちはこっそりアンヌに近づいた。アンヌが身を縮める。

「会いたいというなら、来てもらいましょう。この子たちの顔見知りかもしれないわね」

「名前は何て?」

「阮訓とか聞いたけど」

 子どもたちは声を出しそうになった。先生だ! 武装した女は華なのだろう。

「連れてこさせて。そいつの話が聞きたいわ」

「仙人と龍も呼んでくる?」

「いいえ。余計な口出しばかりする連中ですもの。太利は?」

「どこに行ったんだろ。姿が見えないの」

 姉妹は足早に天幕を出ていった。その隙に、イザベルは髪に刺した簪を抜いた。

「アンヌ! 無事でよかった」

「イザベルさん……」

 アンヌの顔は少し青い。イザベルは不安になった。

「ひどいことされてない? 怪我は?」

「ううん、大丈夫……でも、私裏切り者になっちゃった」

「そんなの、心配するなよ」

ジャンはイザベルとアンヌを隠すように前に立った。彼の影で、イザベルは簪で麻の縄を何度も穿った。短剣は取り上げられてしまったので、これしかいましめを解く手段がないのだ。

「でも驚いたね、訓先生が来たなんて」

「数日はかかるなんて言ってたのにな」

「何だかんだで、優しいのよ」

 イザベルたちは知らない。彼らを見送った後のセシリアたちが華に見つかり、この無謀な計画を全て白状させられたことを。だから、訓が乗り込んできたというのは偶然だと思っているのである。

「華さんもいるなら安心だね」

「これを使う機会はないかな」

 爆薬を軽く振り、イザベルは残念に思う。

「逃げる時にさ、この忌々しい天幕を出来るだけぶち壊して行こうよ」

「それがいいな」

 アンヌの縄がちぎれてばらばらと地面に落ちた。アンヌの跡の残る手首を、翠瑠が労るようにさする。アンヌが暗い声で「ごめんね」と呟いた。

「私、足ばかり引っ張ってる」

「気にするな。お互い様だ」

「私たちが危ない時は、アンヌが助けてね」

 イザベルがにっと笑うと、アンヌは小さくうなずいた。


 しかしその時、

「お前たち、何をしている!」

 鋭い叱責の声が飛び、四人は身をすくませた。


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