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第4章 23


 文懐への報告を終えた訓には、マルシャンの通訳という仕事が待っていた。普段より焦りが出ていたせいか、何度も間違いを犯し、それを告げるたびに文懐や燈に睨まれた。


 思えば、フランス語に堪能な司祭は他に何人もいるのである。訓だけがいつまでも通訳という名誉を独占しなくてもいい。腕試しをしたい司祭やカテキスタは離れた所から会話を盗み聞きしては訓を嘲笑している。


 とうとう音を上げた訓は、年下の司祭に通訳を任せてその場を後にした。肩の荷は下りたが、頭の中が空虚になった気がした。


 フランス行きの船が破壊されたとなると、どう対策を講じるのだろう。竹から槍を切り出す作業に加わりながら、訓はぼんやりと予想する。大方、インドのポンディシェリにフランス軍の基地があるから、そこにまず使者を送るのだろう。あるいは、宣教会の通信連絡館を構えるシャムのアユタヤか。しかし、明があの船に乗っていなくて本当に良かった。


「ここにいたのか」

 フランス語で呼びかけられたのは、大分時間が経ってからのことだった。

 目の前に立つのはマルシャンだ。

「何をしている?」

「槍作りを」

「感心な心がけだが、ちょっとついてきてもらいたい」

「また通訳でしょうか?」

「いや。それなら別の者がいる」

 そうですか。

 マルシャンは強引に訓を誘い出し、大股で歩き出した。

「そこ、罠がありますよ」

「例の落とし穴か」

「いえ、糸が張ってあるんです」

 ひょいっと足を上げ、マルシャンはまた何事もなく足を進める。

「どこに向かっているのです?」

「怪しい男が川の側にいたのだ。ひょっとしたら敵方の人間かもしれない」

「私を呼ばなくても、近くに兵士はいくらでも……」

「フランス語が通じないと困る」

 マルシャンは、訓が後ろをついてきていると疑いもしない。

「ジョルジュ、私と共にピニョー猊下になれ」

 自分の聞き取り力が、急激に低下したのかと思った。

「何とおっしゃいました?」

「ピニョー猊下になろうと言った」

 意味が分かりません。

「黎文懐が我々に求めている真の役割が分かるか? 彼は単にフランス人を頼っているんじゃない。グエン・アン(嘉隆帝)にとってのピニョー猊下になってほしいのさ。そして自分が皇帝になる」

 文懐がそこまでの野望を抱いているかはともかく、いわんとすることは理解した。だが、

「父のような真似はできません。私にはフランス人からの信頼も、実家の財産も、たぐいまれな説教の才能もありません」

「ピニョー猊下だってそうだ。あのお方はこの異国で、何もない状態から国盗りを始めた。だから偉大なのだ。ピニョー猊下は宣教師の信頼を失い、実家の財産を手に入れる手段もなく、説教などは戦場では役に立たなかった。それでも__」

 ピニョー猊下はご自分の成すべきことを固く信じておられた。だから命がけで大南からフランスまでを奔走し、奇跡の軍隊を結成した。ピニョーは、ピニョーは、ピニョーは。熱に浮かされたようにマルシャンはピニョーの偉業を語る。本気で父のことを尊敬しているのだと感心する反面、何故自分に聞かせるのかと不快になる訓である。

 西洋の叙事詩のようなピニョーの生涯。輝かしい聖人となるための道だとマルシャンは言う。他の司祭も口を揃えてピニョーを褒め称える。

 そこまでの価値が実の父親にあるとは訓にはどうしても思えない。父親の存在のせいで嫌な思いをしたことの方が、訓には圧倒的に多かった。本当に、幼い頃から__

「__臆しているのか」

 黙った訓にマルシャンは振り向くこともなく問いかける。彼にとって訓は何なのだ。ピニョーの話をいつでも聞いてくれる革袋か。意のままにできる手駒か。

「それとも、猊下を責めてきたのか? トンキン代牧区の弱虫どものように」

 あいつらは宣教師の風上にも置けない。マルシャンはののしった。

「多くの宣教師が、ピニョー猊下の偉大なる計画を聞いた時にはそっぽを向いた。しかし、いざ阮朝の創設事業が成功すると、まるでピニョー猊下の後継者であるかのようなふりをして嘉隆帝に媚を売った。あいつらにとって、異国政権の保護は祈れば降ってくる神の恵みなのだ」

 だが、それは違うだろう、ジョルジュ?

「ピニョー猊下が苦労して__命を落としてまでつかみ取った勝利の産物だ。違うかね」

「あなたはずっと何が言いたいんですか?」

「ジョルジュを勇気づけているのだよ」

 これ以上どこから勇気などを絞り出せばいい?

「大きな偉業を成すためには、ためらいを捨てねばならん。君が怖いのは死か? 神の怒りか? 恐れることなど何一つないのに」

「私が恐れているのは、実力が伴っていないのに担ぎ上げられることです」

「心配ない。言ったではないか。共に猊下になろうと。頭を使うのも、フランス政府と交渉するのも全て私がやる。君は新たなピニョーとして反乱の象徴となるのだ」

 マルシャンは両腕を広げた。

「聖人が行うことで、全ての俗的な戦いは輝かしい神への道に変わるのだ。我らがすることに何の間違いもあるものか。我らの手でこの異教徒の国を変えよと、神もキリストもおっしゃるだろう!」

 訓はマルシャンから目が離せないでいる。彼の言葉一つ一つには説得力がある。馬鹿馬鹿しいと思っていても、すがらずにはいられない。

 輝かしい道、か。英路が死んだことも、翠瑠の信頼を裏切ったことも、華の手を汚させたことも。全てが報われるのか。魅力的な提案だった。だから恐ろしい。

 川の前に出た。水面に上半身だけ出して屹立する男がいる。

 長い長い白髪の老人のようだった。だが眉毛は黒い。顔もよく見ると若々しい。

「去れ、異国の伝道師よ」

 彼の声が辺り一帯に広がった。

「ジョルジュ、こいつだ」

 訓は老人を見つめた。

「……仙人?」

「いかにも。仙道を極めたこの貉天水、大龍と共に反徒の討伐に参った」

「大龍将軍の仲間か!」

 姓が同じなのは偶然か? それとも兄弟か何かだろうか。

「仙人なら……仙術でも使うのでしょうか」

 思わず丁寧な言葉遣いになる。仙人はほっほっほと笑った。

「その目で確かめてみるがいい」

「なに……」

 天水の周りに蒸気が立ちこめた。視界を奪われ、訓は目をつぶる。

 その時、頭上から声がした。

「先生?」

「その声……アンヌか! 隠れていろ!」

 だが、聞き逃す仙人ではなかった。不気味な哄笑が響いたかと思うと、次の瞬間にはアンヌの悲鳴が上がった。

「アンヌ!」

 ようやく薄れてきた蒸気の向こうで、仙人はしっかりアンヌを捕まえ、川の中に引きずり込んで消えた。

「あっ……!」

 追いかけた時にはもう彼らの影も形もない。愕然として水の中を覗く訓。水底の小石と逃げ惑う魚たちしかいない。


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