6(謎の来訪者)
外に出ると、二人はどちらからともなく噴き出した。
「上手くやったな!」
「まあな。明くらいならちょろいもんだよ」
「さあて、自由になったことだし、お客様とやらを探そうか」
ピエトロは周囲を見回した。社を囲む藪の向こうを、野草や茸を集める女たちが通り過ぎて行った。教会を出入りする司祭やカテキスタの目をごまかすために、ピエトロはうずくまり、トマスは看病するふりをする。
「教会かな?」
「かもな……いや待て」
ピエトロは、教会から出てきたカテキスタをじっくり観察した。
「あの人、薬を入れた箱を持っているぞ。きっと怪我人の元にいくんだ」
「なるほど」
しゃがみ込むピエトロたちに怪訝な目を向けるカテキスタは、しかし何も言わずに、林の中に入って行った。その背中がかなり遠くなってから二人は立ち上がり、後をつけた。
カテキスタは周囲を警戒しているようだった。何度も後ろを振り返るので、見つかりそうになる。二人は木に登り、上から追いかけることにした。
カテキスタが立ち止まったのは、訓の家の前だった。ピエトロとトマスは顔を見合わせる。カテキスタが戸を叩くと、訓が顔を出してさっと来訪者を招き入れた。中の様子は樹上からは分からない。
「どういうこった?」
ピエトロは目をすがめる。
「客人が訓先生の家にいるのか、訓先生が怪我をしたのか。……降りてみないと分からないな」
カテキスタたちが家から出てこないかしばらく様子を見て、二人は枝を伝って地上に降りた。ピエトロはさっさと家の裏に回り、トマスを呼び寄せる。一カ所だけ、壁に穴が空いているのだ。
二人身を寄せ合い、耳を穴につけると、ぼそぼそと話し声が聞こえる。
『……薬を持ってきた。この女に効くかは知らんが』
『ありがとう。萬呂司祭は、何と言っていた?』
訓の声だ。衣の擦れる音と弱々しいすすり泣きも聞こえた。
『あまり喜んではいなかったぞ。厄介の種でしかないと言ってな』
『キリスト教徒を増やす絶好の機会じゃないか。どうして嫌がる?』
『私も司祭と同意見だ。都からの逃亡者を匿うのは危険だろう』
逃亡者! 明の話は本当だった。しかも女で、怪我をしている?
中を見ようとトマスが無理に動いた。はずみで微かな音をたててしまう。ひやりとしたが、カテキスタたちが気づいた様子はない。
『せめて怪我が治るまでは置いてやるのが良いと思うがね』
『……まあな。しかし、このひどい有様を見るに、回復するかも怪しい』
『医者を呼んでくるべきだな。俺たちじゃ包帯を巻いて薬を飲ませることしかできない』
『今、医者は隣の社に出張中だ。事情を話してくるよ』
『どうも』
よそよそしい会話の後にカテキスタが出ていった。不意に訓が壁を内側から叩いた。
「誰か隠れているな!」
ピエトロとトマスが家の中に入っていくと、訓は溜息をついた。
「やっぱりお前らか。講義はどうした?」
「その……体調がちょっと、悪くて……」
「嘘をつけ。抜け出してきたんだろう? え?」
「……すみません!」
「後でちゃんと明に謝れ。今日が最後の講義だったんだぞ」
その時、暗がりの中で誰かが呻いた。訓がはっと振り向く。
トマスが静かに問いかける。
「……怪我をしてるんですか」
「そうだ」
訓は薬の瓶を開けながら答えた。
「何か手伝いましょうか?」
「水を汲んでこい。出来るだけきれいな水だぞ」
「はい!」
ピエトロが家を飛び出して行った。残されたトマスは、訓に倣って横たわる誰かの側に屈んだ。
薄明かりに照らし出された顔を見て、トマスは息を呑む。
まだ若い女らしい__らしいというのは、顔で上手く判別がつけられなかったからだ。自分で髪をいい加減に切り落としたようなざんぎり頭。顔には太く無残な傷が二本、小さな顔いっぱいに走っていた。上半身に巻いた包帯は既に新しい血で赤く染まっていた。
「……獣にやられたらしい」
訓がぼそりと呟いた。
「助かるでしょうか?」
トマスの声は震えていた。
「馬鹿なことを聞くな。当然だ。致命傷じゃない」
訓が断言した時、ピエトロが戻ってきた。
汗や汚れを濡らした手拭いで拭き、包帯を替えている間に女の意識が戻った。しきりにうわごとを呟き、ただぼんやりとピエトロたちを眺めている。焦点の合わない瞳に不安を覚える。
「どうして、訓先生の家に?」
薬草を刻んで粉末にしながらトマスが尋ねる。
「司祭たちは、まだ教会にこの人を入れたくないのさ。匿うか追い出すか、迷っているから」
「まさか、追い出すだなんて!」
「そうして下さい」
女が小さな声で言った。三人がぎょっとして女を見つめる。
「わたしが……ここに……いると、迷惑を……かけてしまうから」
「迷惑じゃないですよ!」
ピエトロが大声を出した。
「でも……わたしを追う者……、必ず、ここに……」
「追われているのか」
訓が落ち着いて尋ねた。
「……はい」
「尚更、ほっとけないですね」
粉薬を水にといて呑ませると、女は顔をしかめた。よほど苦いのだろう。それでも、全て飲み干したのを見届けてから、訓は彼女を再び床に寝かせた。
「……ありがとう」
女は覗き込む三人の男に微笑んだ。こんな時なのに、笑うと可愛らしい。
「この傷……見かけほど、ひどくはないの。何ヶ月も前につけられたものだから……」
「狼ですか?」
「いいえ。虎だったわ」
「少し質問をしてもいいか。あなたの名前は?」
「怜。怜です。そう呼んで下さい」
彼女はその後も、姓は絶対に明かそうとしなかった。
「どこから来たんですか?」
「生まれ育ったのは……紅河の下流の、とある社です。五年かけて、ここまでやってきました」
ピエトロにはよく分からない。
「ええっと、紅河ってここからどれくらい離れてる?」
「ここが大南の南端なら、紅河は北の端だ」
「ひえー」
終業の鐘が遠くで鳴った。だが、訓は学校に戻れとも言わない。だから二人も余計なことは言わなかった。
「どうして、この社に来たんですか?」
「どうして……さあ、分かりません。当てもなく逃げて逃げて逃げ続けて、倒れたところにあなた方がいたんです」
「誰に追われているんだ?」
すると怜は口をつぐみ、一切話さなくなった。
訓は顔をしかめていたが、立ち上がった。
「俺は教会に行く。お前らに看病を任せてもいいか?」
「はい!」
「でも……怜さんを追い出すつもりじゃありませんよね?」
訓は肩をすくめ、出ていった。
「血も涙もないな。先生も、司祭様も」
「全くだ。おれたちだけでも怜さんを匿おうよ」
どたどたと足音がして、乱暴に戸が開いた。入ってきたのは、聖歌隊の面子だ。
「おれたちが、何ですって? 私たち抜きで何をするつもりなの?」
腕組みをしたセシリアが二人を睨みつけた。
「何があったのか知らないけど、抜け駆けはやめてちょうだい」
マリアやカトリーヌも、セシリアの後ろから顔をのぞかせる。横たわる怜を見て、息を呑んだ。
「明先生が言ってた人ね」
「ひどい怪我してるみたい。薬は飲ませた? 痛み止めは?」
矢継ぎ早に尋ねながら、女子たちがピエトロを押しのけ、怜の手を取った。
「何か欲しいものがあったら、言ってくださいね。私たちが用意しますから」
怜の張り詰めた表情が、少し和らいだ。
「ありがとう……」
ピエトロやトマスは何となく面白くない。
「次の授業は出なくていいのかよ」
ほら、始業の鐘が鳴った。
「あら、トマスに言われたくないわ。明先生の授業から逃げたくせに」
「私たちは、ちゃんと許可を貰って休んだのよ」
セシリアが、ピエトロの尻を叩いた。
「さあ、男は出て行った!」
柔らかい寝間着を抱えたアンヌが、追い出されるピエトロに笑いかけた。カトリーヌが巻いた彼女の髪型は、確かにすごく可愛らしかった。
怜に寝間着を着せ、温かい寝具にくるんでから、ようやくセシリアたちは男子を呼んだ。
「怜さんは……」
「眠ったわ」
寝息をたてる彼女の側で、セシリアはひそやかに話した。
「この人、相当気を張っていたみたい。怪しい男が近くに来ないか、ずっと気にしていたわ。そのくせ、どんな奴かは決して教えてくれないの」
「追われているって聞いたよ」
カトリーヌが呟いた。
「どんな事情があるんだろう」
その疑問に答えられる者はいなかった。
「司祭様は、怪我が治ったら怜さんを追い出すつもりだ。だから、おれたちで匿おうと思ってたんだよ」
マリアが眉をひそめた。
「司祭様に逆らうつもり? 危険だね。いつまでも隠すことなんてできないよ」
「マリア!」
「訓先生は何て言ってたの? ピエトロ」
「どっちつかずだな。追い出すとも、匿うとも言ってない」
「司祭様の説得は無理でも、少なくとも訓先生は抱き込まなきゃいけないよ。彼女を隠すにはこの家が一番都合良い」
その時、外を見ていたミゲルが合図した。
「先生が戻ってくる!」
子どもたちは立ち上がって訓を迎えた。訓は少し固まったが、聖歌隊が勢揃いしていることについて何も言わなかった。
「彼女は?」
「眠っています」
「そうか」
家に入ろうとした訓を、両腕を広げたセシリアが拒んだ。
「何のつもりだ?」
セシリアは仲間たちに目配せをして、決然とした表情で訓に向き合った。
「先生。怜さんを皆で助けましょう」
「は?」
カトリーヌも加勢する。
「キリスト教徒として、困っている人を見殺しにできません! 怜さんはこの社で匿うべきです」
「……あの人は、ずっと怖い思いをしてきたみたいだから……」
と、アンヌ。
「彼女の世話は私たちでします。訓先生のお手は煩わせません」
マリアが言いつのった。
訓は苦笑いして、目の前に立ちはだかる少女たちを見比べた。
「分かったから、そんな目で俺を見るな」
「じゃあ、先生……」
「ひとまず、しばらくは彼女を泊めてやることになったよ。その間に追っ手とやらが来るかどうかだな」
ピエトロはほっと安堵の息を吐いた。
「そんなに彼女が気になるのなら、お前らの手を貸してくれ。俺は今から講義があるから、何人か彼女の側にいてやってくれ。そうだな、ジャン、マリア、カトリーヌ、頼む」
「はい!」
「他は授業に戻れよ。特にピエトロとトマス。これ以上ずる休みはさせないぞ」
「はあい」
「分かっているな、決して彼女の話をするんじゃないぞ」
だが、学校も、怜の話題で持ちきりだった。とりわけピエトロたちは矢のように質問を浴びせられ、目を白黒させる羽目になった。




