第4章 22
明と華は、連れ立って歩いている。
二人きりなど本当に珍しいことだと明は緊張しているが、華の方は分からない。いつもの鉄砲を背負って、森の景色を見渡しながらのんびりと呟いた。
「昼も過ぎると、晴れてきましたね」
「そ、そうですね」
「朝の様子だと雨が降るか心配だったのですが。鉄砲を濡らさずに済みますわ」
「きっと、あの大龍将軍が霧を生んでいたんですよ。だから、退却すると晴れるんです」
「じゃあ、あの人たちと戦う間はいつも天気が悪いのかしら?」
「もしかしたらそうかもしれません」
雨の中で鉄砲は撃てないのだろうか。
「ご心配なく。油紙を巻いて、木の下から撃てばそう火薬も湿りはしません。ただ、視界が悪くなるのは困りものですわ」
「奴らはそれが狙いなのかもしれませんね」
明の肩を遠慮がちに華が叩く。
「随龍さんがお見えです」
華僑のまとめ役、莫随龍はわざわざ二人を出迎えてくれていた。一時的に占領した家屋に運び込まれているのは、早速外国商人から入手した物資らしい。
「野外で失礼。家はちょっと、足の踏み場もないもので」
「いえ。時間を作ってくれてありがとう」
「明君も隅に置けないね。華さんと一緒だなんて」
にやつき笑いと共につつかれ、明は居心地の悪い思いをした。華は愛想の良い顔で微笑んでいるが、その心中は分からない。
「お怪我はありませんか?」
「お陰様で、どこにも。肝が冷えて腹を下したぐらいだ」
「それは何よりです」
二人は促されるままに地べたに座った。湯飲みに入れて出されたのはよく冷えた茶色い液体だった。
「これ……お酒……ですか」
華が香りを嗅いで気づく。
「そうそう。西洋から購入した珍しい酒だ。麦という穀物から作るのだそうだ」
一口つけて明はむせそうになる。かなり強い酒だ。しかし、傍らの華はぐいっと一気に傾けた。
「おっ、良い飲みっぷりだね。流石華さん」
「どうもありがとうございます」
何となく圧を感じて明も恐る恐る飲み干そうとしたのだが、華がやんわりとその手を止めた。
「美味しいお酒ですわ。明さんの分もいただいてよろしいですか?」
二杯飲んでも顔色が変わらないのがスゴい。
「それで……今日はどんなお話をしに来られたのかな」
その時になって、明はやっと華の行動の真意を理解した。
大事な商談をする時に、酒なんて飲んでへろへろになってはいけないのだ。
「随龍さんにぜひともお願いしたいことがあるのです。僕らは黎文懐様の代理でここに来ました」
随龍は肉付きの良い頬を動かして微笑んだ。
「兵糧の買い付けだね」
「お察しの通りです。あなたと我々の信頼関係があればこそ、他の誰でもないあなたに相談に来ました」
「だが、大量に買った食糧をきちんと扱えるのかな?」
にこやかに、しかし鋭く随龍は尋ねた。
「折角の食糧や弾薬を獣に食い散らかされたと噂に聞いているよ。こちらとしても、あんな風に売った物を無駄にされるのは嬉しくないなあ」
「あれは確かに我々の失敗でした。ですがこれからは管理を徹底します。決して獣や盗人の好きにはさせません」
「具体的には、どうやって?」
「昼夜見張りをつけるとか……」
「明さん。それよりも良い方法があります。分散して各部隊が携帯するのです。どこかにしまい込んでいては時間の無駄にもなります」
随龍が納得したようにうなずいた。
「だがもう一つ、困ったことがある」
「な、何でしょう?」
「順化の宮廷からお触れが回ってきているんだ」
「お触れ?」
「禁止令だよ。君たち反乱軍との利益のやり取りを一切禁じるときた。破れば国外追放だ。大南を追われてはいくら私でもかなわない。私の人脈のほとんどはこの国に集中しているものでね」
「でも、宮廷にばれなければいいんでしょう」
華が言い返す。
「華さんは怖い物知らずだね。だが、ここで私は一つ聞きたい。危険を冒して取引するほど、君たちは私に利してくれるのだろうか?」
明は悟った。高値で買えと言っているのだ。
「もしもの話をしますよ。もし、我々に食糧と武器を売ってくださるならば、どれぐらいの値段をつけるおつもりですか?」
「ざっとこれぐらいかな」
地面に枝で書いた数字に、華が息を呑む。
明の父に耳打ちされた予算のおよそ五倍である。
「足下を見てやしませんか。これが普段シャム商人や沿岸の民に売りつける価格とはとても思えませんが」
「戦時価格だよ。普段よりも危険が伴う取引の場合にはね、こうして安全代も払ってもらわないことには始まらない」
私が食糧を手に入れる途中で撃たれて死んだら困るだろう? と随龍は笑った。
「華さん。貴女が連れて来られたのは、私に恩を売るためだろう。可哀想な役回りだけれども、商売と感情は別物だということを分かって貰いたいね。禁令を無謀にも破るためには、それなりの見返りがないとね」
「ええ、承知しております」
華が静かに応じる。
「では、これはいかがでしょうか?」
そう言って随龍の目の前に彼女が差し出したのは、背負っていた鉄砲だった。ぎょっとして明は彼女の顔を見る。随龍が目を細め、低くうなった。
「私を銃で脅そうというのかね」
「違います。私や鉄砲を扱える者が、あなた方の安全を保障します。安全代はお金ではなく、体で支払うんです」
「でも、それは……」
「明さんはどうぞお静かに。……随龍様、いかがでしょうか。それでも、まけてはいただけないでしょうか?」
随龍が、あごに手を当てる。
「華さんが常に私の警護を側でしてくれるというのなら……」
助平親父! 思わず明は心の中で罵った。心なしか華の笑顔も引きつっている気がする。
「それは我々が困ります。華さんは大事な戦力だから」
「じゃあ、私も勉強させてもらう訳にはいかないな」
明は呆れて立ち上がり、華に手を伸ばす。
「交渉決裂ですかね。残念ですが、ぼったくられてまで買うなと父にきつく言われているので。どうぞ、大量の在庫を抱えて森を出ていって下さい」
「何だって?」
「何も売ってくれないなら、警護をつける必要もありませんね。あなた方を撃たないように警告しておくので、ご自分でその荷物を運び出して下さい。あ、道の真ん中には落とし穴がいくつも仕掛けられているので、落ちないようにお気をつけて。杭に刺さって死んでしまいますよ。折角華さんに助けてもらったその命」
「何だって……?」
「森の外には大龍の軍隊が待ち構えています。捕まらないといいですね。きっとあなたも我々のお仲間だと思われているでしょうから」
随龍はあっさり白旗を上げた。
「分かった分かった。いつもの値段で売ればいいんだな? 金は用意してあるのかね」
「勿論。つけを溜めるつもりはありませんから」
金を袋から取り出し、数えて渡すと随龍は鼻から息を吐き出した。
「君は交渉が随分上手くなったね」
「ありがとうございます。褒めて下さって嬉しいです」
「その慇懃な喋り方、苛々してくるからやめてくれないか」
「はいはい。では早速兵士を呼んで運ばせますね」
「好きにすればいいよ、もう」
やけをおこしてはいけませんな。
「嫌らしい真似をしてごめんなさい、随龍様」
華がそっと頭を下げる。
「折角可愛い顔しているのに、台無しだよ」
暴言が止まらない随龍である。
「もう誰かと結婚しているのかね?」
「私ですか? いいえ。独り身ですわ」
「鉄砲振り回してなければ、もっと早く身を固められたんだろうね」
この男はどうだい? と明を指差して随龍が問う。明は無駄に緊張して冷や汗を流した。
「とても立派な方だと思いますわ」
華は穏やかな笑みを浮かべて返した。駄目だこりゃ、と空を仰ぐ随龍。何でもないような顔をしながら実は明も落ち込んでいる。
華が明に恋愛感情を抱いていないことは、火を見るよりも明らかだ。
「では、失礼致します。森を出られる際は是非声をかけて下さい、警護をつけさせますので」
礼を言って去ろうとすると、随龍が引き留めた。
「おまけの情報を一つあげようか?」
「その見返りに何を要求されるんです?」
「失礼だな、友情から親切をしてやろうというのに」
「どうだか……」
「いいから耳を貸しなさい、聞いておいて損はないぞ」
随龍は華と明に顔を近づけさせ、囁いた。
「フランスに支援を頼むといって、船に手紙を託しただろう。その船が出航よりも前に沈んだそうだぞ」
「何ですって?」
「本当ですか……?」
「部下が見たんだ。間違いない。港で派手に爆発して、乗組員も吹き飛ばされたそうだよ」
「なんてひどい……」
華が口を押さえた。
「誰かが仕組んだのでしょうか?」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。人為的な事件としても、宮廷軍の回し者かもしれんし、沿岸を荒らし回る匪賊の仕業でないともいえない」
二人は沈黙した。その船は、明が乗るかもしれなかったものである。また、フランス行きの船が爆破されたということは、文懐たちが期待していた軍事援助が見込めなくなるではないか。
「すぐに文懐様に報せなくちゃ」
「ええ」
二人が驚いている様を見て、随龍は満足げであった。
「船が爆発した!?」
帰路の途中で二人はたまたま訓に出会い、この重大な情報を教えた。案の定、訓も顔を引きつらせている。
「参りましたね。援助が来るのが遅くなる」
「誰の仕業だ? やはり宮廷軍が仕掛けた工作だろうか」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれないし……」
「明さんったら、随龍さんの言ってることを繰り返して」
明は思わず赤くなった。下らないやり取りを訓は無視した。
「フランスの船を大南人が爆破したとなると、まずいんじゃないか。フランス政府が怒ったらどうする。宮廷軍はそこまで考えているのか……」
「もしかして、全部反乱軍のせいにするつもりかしら」
「まさか……フランスとのつながりがあるのはこっちの方だ。マルシャンのような宣教師もいる。鎖国令を出し外国を嫌っている宮廷に仕業だと分かって貰えるだろう」
何にせよ、文懐とマルシャンに報告だ。訓は急いで走って行こうとして、ふと二人の方を向いた。
「華さんも明も、お疲れ様。大手柄だな」
たったそれだけの賛辞だったけれど、華は嬉しそうに笑っていた。今日初めての、心の底からの喜びを見せていた。
「僕たちも、文懐様の所に向かいましょうか」
「ええ」
歩き出した明の隣に寄り添う華。
「さっきは、お見事でしたね」
「あ、ありがとうございます」
「私だけではとてもあの方を説得できませんでしたわ」
「ああいう輩に甘い顔ばかりしていては駄目なんです。商人はとにかくがめついから、時にはきつく互いの立場を理解させておかないと」
「あの方とはお友達でもあるんでしたっけ?」
「嘉定にいた時、何度か家で夕食に招いたというだけですよ」
華僑は友情に篤いというが、それは共に修羅場をかいくぐってきた仲間に限られる。普段仲良くしているつもりでも、余程のきっかけがなければ真の友情など期待できやしない。
随龍の先祖、莫天賜は河僊 の総督で、大南人、カンボジア人、シャム人だけでなく西洋人司祭とも関わりを持ち、南の要衝を上手く統治していたという。シャムの反乱に巻き込まれていつしか没落したが、抜け目のない人脈の広さは随龍にも受け継がれている。
案外、宮廷軍にも武器を売るつもりなのかもしれない。西洋の武器を宮廷がほいほい購入するかは疑問だが。
「それよりも華さん……気分を悪くしませんでしたか。その、あいつがひどいことばかり言ったから」
「ああ、それぐらい」
華は手を振った。
「気にしてはいませんわ。……訓さんが、」
「え?」
「いえ、何でも」
気になるではないか。
「教えて下さいよ」
「大したことじゃないんですけどね。訓さんが聞いていたら、さぞかし真剣に怒るんだろうなって思えて……その様子を想像していたら、いつの間にか話が変わっていたんですよね」
華はくすくすと笑っていた。
「あの人は本当に、いつだって真面目で……時々それが空回りしていて……でも側で見ていると、心が温かくなるんです」
楽しそうに語る華を見ていると、明の胸は苦しくなる。それは、自分の片想いが到底叶うことはないのだと理解してしまうからだろうか。
きらきらと星屑を撒いたように輝く華の笑顔を、可愛らしいと思う。しっとりした優しい声で語る内容は、野の花のように喜びに満ちている。その辺の男よりも度胸や強さのある華が、誰に対しても思いやりのある華が、大南中のどの女よりも美しい。
だけど、明が華の心に入り込むことは不可能に思える。
「華さんは……」
そう言いかけると、彼女は明を見上げた。何を言おうとしていたんだろう。華が続きを待っている。弟を見るような優しい目つきで。
「きれいな人ですね。きっと訓さんもそう思っていますよ」
華の顔はほんのりと赤かった。随龍に飲まされた酒のせいだと思うことにした。




