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第4章 21

 森の中に集められた兵士はおよそ三千。南圻を包む広い森のあちらこちらに散らばった。一方嘉定に残された兵士は二千人を切っている。彼らは彼らで、普段通りの日常を過ごす民の治安維持に努めている。

 文懐は、宮廷軍の攻撃だけでなく、シャムからの不意打ちも警戒していた。嘉定の守りが手薄と分かれば、抜け目のないシャムはきっと領土を狙ってくる。虚勢を張り続けるために、全軍を順化との戦いに投入するわけにはいかなかった。

 大龍の軍隊は、不気味なほど沈黙を保っている。文懐は勝手に飛び出したことを家臣に叱られ、大人しく__といってはおかしいが__本部を構えた教会に常駐している。伝令役の子どもたちがしょっちゅうやってきてどこそこの罠が完成したとか、フランス人義勇兵が文懐に会いたいと言っているだとか報告を持ち込む。

 訓はあの戦い以来、文懐に近寄らないようにしていた。あの時彼が見せた激しい怒りに臆したのかもしれない。良かれと思ってきかせた機転が、二人の間にしこりとなって残っている。手持ち無沙汰でいることもできないので、落とし穴を掘ったり、毒蛇から毒の液を絞り出す手伝いをした。時折、聖歌隊の子らが木の上から顔を覗かせる。伝令として大活躍らしい。普段木登りばかりして遊んでいるのが、こんなところで役に立つ。

「先生!」

 この時も、落とし穴を草で覆い隠している訓の側に、ピエトロが降りてきた。

「ああ、ご苦労さん」

「先生も。何やっているんですか?」

「今は落とし穴をだな……」

「へえ!」

 ピエトロが身を乗り出すので、ひやりとした。

「おい、気をつけろよ。落ちたら竹の杭で串刺しになるぞ」

「うわ、怖すぎませんか」

「そうだよ。皆恐ろしい罠ばっかり思いつくからな」

「こういうの、間違って味方が嵌まっちゃったらどうなるんでしょう?」

「そうならないように取り決めしたじゃないか。道の真ん中は通るな。必ず木の根元から根元を移動するように進めと」

「そうでしたっけ。僕らほとんど木の上にいるから忘れてました」

 訓は呆れて教え子を見た。

「怪我しても助けられないかもしれないぞ」

「分かってますよ。だから今も、めちゃくちゃ気をつけてます」

「どうだろうか」

 ふとピエトロは訓をまじまじと見つめた。

「何だ?」

「先生、優しくなくなりましたね」

「はあ?」

 ピエトロはそのまま木の根元に腰を下ろした。

「おい、伝令の途中じゃないのか」

「今だけ休憩なんですよ」

「そう言って他の子に仕事を押しつけているんじゃないだろうな?」

「ほら、また厳しいことばっかり言う」

「ほっとけ、元から俺はこうだ」

 ピエトロの笑みがふっと消えた。

「前までの先生なら、人が死ぬような罠なんて作りませんでした」

 訓は虚をつかれて黙った。


 いつからと聞かれれば、やはり英路が死んだ後からなのだろう。戦となれば人が大勢死ぬのだという事実に__もっと言えば、自分も敵をどんどん殺していくしかないのだという想像に段々嫌悪感やためらいがなくなっていく。


 人殺しを進んでしたい訳ではない。聖職者として愛と清廉さを常に保ち続けるべしとのお達しが司祭からもあった。実際槍を持って敵と対峙しても、足がすくんで何も出来ないかもしれない。


けれど、この混乱のさなかにいて、自分だけ手を汚さないというのはどうなんだ?


 華はもう何べんも人を撃った。聖歌隊は危険を冒して伝令の役目を果たしている。彼らを巻き込んだ責任が自分にもある以上、キリスト教徒としての信条を破ってでも働かなければそれは偽善だ。


 そもそもキリスト教徒が人を殺さないというのも大嘘だ。ピニョー司教を初めとして、多くの司祭が先の戦争を戦った。訓だって今ここに敵の兵士がいたら、ピエトロと自分の命を守るために躊躇なく槍の穂先を向ける。


 それの何が悪い? 善悪の区別など時代によっていくらでも変わるのだろう。ピエトロは何を非難しようとしている?


「必要があれば人も殺すし物も奪う。それが戦いだ。よく覚えておくんだな」

「いつも教えてくれることと違います」

「何を教えたっけ? 忘れてしまったな」

 乾いた笑いをたてながら訓は被せた草を少しかき混ぜ、ピエトロの横に座り込んだ。

「真っ当に生きていない人間の歌は誰にも響かないって。聖歌の練習をする前に先生はいつも僕たちに言いました」

 言われなくても、よく覚えていた。

「あれは、あの時のお前らが掃除や勉強を怠けるからだよ。今とは状況が違う」

「どう違うんですか? 僕らはずっと、キリスト教徒として生きているのに」

「いいか、秀」

 訓は語気を強めてピエトロの名前を呼んだ。ピエトロが息を呑む。

「殺されてしまったら何にもならん。今は道徳なんぞ捨てて、生きることだけを考えろ。そのために必要なら遠慮なく敵を殺せ」

 それでも、ピエトロはまだ不満も露わに口をつぐんでいる。

「いいな? 返事は」

「……はい」

 休憩は終わりだ。訓はさっと立ち上がった。

「どこに行くんです?」

「どこへでも。罠を作るのを手伝うのさ」


 踏み固められた道は非常に危険だ。明らかに土の色が変わっている所もあるが、草を踏んで作った道なんかは落とし穴と安全な地面の区別がつかない。もうちょっと自分が若ければ、子どもたちのように木の上を移動できるのに、と枝から枝へ移る少年たちを羨ましく見上げた。


 ピエトロは、落ち込んでいるだろうか。まさか、あの能天気な子が。厳しく叱ってもほんの数秒後にはけろっとしているようなあの子が。


 本当は、人を殺せなんて言いたくはなかった。皇帝にも領主にも干渉されない、森の奥深くの集落で信仰を貫けたらどんなに気が楽だろう。だが夢物語のような理想を抱えて死なせるよりは、多少残忍でも強くしたたかな人間に育つ方がどれほどいいか。


(……英路)


 もう何度目か、どこにもいない英路に呼びかける。お前がいる所に生徒を送らないように、ただそれだけをずっと願っているのに。いつも自分は空回りする。どう動くのが正解なのか__天からお前が全て見ているのなら、教えてほしいものだ。



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