第4章 20 (黎文懐軍)
さて、フランス行きの船が沈んだという報せは、まだ文懐の元には届いていない。彼らは今、軍議の最中である。肩を痛めた文懐は手当てもほどほどに、部下を見渡せる位置に腰掛けている。
敵の襲撃によって露わになった反乱軍の脆弱な部分や、兵站の不足など頭の痛い問題は皆の前に山のように積み重なっている。しかし、彼らの顔は思いの外明るい。恐ろしい大龍将軍を一度でも退却させたことが彼らの自信を養ったのだ。
これまでいくらか文懐を侮っていた宣教師たちも、評価を改めざるを得なかった。この暫定的勝利に大きく貢献したのは、文懐が見せた覇気である。彼が頭一つ分以上背の高い大龍将軍に立ち向かわなければ、これほどまで軍の士気が上がることもなかっただろう。
しかし、戦いは一人の将軍の覇気だけでは乗り切れない。戦略もなく、勢いだけで相手を押せるのは一度きりである。
軍議が行われているのは森の中の野原である。後方に控えていた兵士が今度はデルタの見張りにあたっている。大龍軍と一戦交えた者たちは傷の手当てをしたりめいめいの武器を調整したり、思い思いに次なる戦いに備えている。
軍議に参加しているのは、文懐を初めとする嘉定の名士たち、一部の宣教師と大南人司祭、そして華のような活躍した一般兵士である。華は訓の側にそっと寄り添っている。訓はマルシャンの通訳という立場上、彼の隣に座らざるを得ない。
マルシャンは地面に座るのが苦手らしい。わざわざ手拭いを敷いて、もぞもぞと居心地が悪そうに何度も体勢を変えていた。西洋は専ら椅子に座るというから、あぐらをかくこと事態不慣れなのだろう。
「諸君、率直に問題について話し合おう。このまま平野に進軍して良い結果が出るとは私はどうしても思えない」
「兵糧が足りませぬ」
「鉄砲の弾もです……」
「そもそも、向こうが何万の軍勢で攻めてくるのに、平野で戦って勝てるのでしょうか? こちらは戦に不慣れな民が精々三千といったところでしょう」
口々に告げられる意見という名の不満に耳を傾け、文懐の顔は段々険しくなっていった。こちら側の不足を挙げれば挙げるほど、反乱は無謀なのではないかと思えてくる。
文懐の家来、燈が発言した。
「数で不利なら、しばらくは森に留まるべきでしょう。奴らを森の中に誘い込み、奇襲をかけてじわじわと人数を減らしていくのです。何万の軍といえど、森の中に一気に突撃することはできませぬ。少人数に分かれたところを殺していくのです」
「でも父上、もし森に火を放たれたら終わりですよ」
「仮にも龍の化身を名乗る将軍が、火をかけることはあるまい」
文懐は明の懸念に賛成した。
「水、水といつまでもこだわるほどあの将軍は愚かじゃない。必要があれば火も放つし鉄砲も使うことを警戒すべきだ。勝つために何でもやるのが戦だろう」
「では、平野との境目に鉄砲隊を配置しましょう」
火矢を用意している気配があれば鉄砲で撃つのだ。幸い、射程距離は最新式の鉄砲が遙かに長い。
「フランスの大砲は、狭い森の中では活かせませんよ」
「そういった武器が届いたら森を出ることを検討しよう。それまで森で耐えるのだ。その間、味方の軍勢も積極的に増やしていこう」
敵兵で降伏する者がいれば受け入れよう。そう文懐が言った。
「人間はいればいるほど役に立つ。元敵兵ならば、肉の盾にしても惜しくはない」
そう発言したのは、キリスト教徒である嘉定の武将だった。
明が手を挙げる。
「兵糧ですが、華僑から買ってはいかがでしょうか。莫随龍がまだ近くに待機していることですし」
「あいつか。法外な値段をふっかけられたりしないだろうな?」
「僕は彼とそれなりに親しいつもりです。命じられれば彼との交渉にあたります」
胸に手を当て、明は堂々と宣言した。
「それに、華さん……」
「私ですか?」
突然向けられた皆の視線に華がたじろいだ。
「随龍は華さんに恩義を感じています。彼女を連れて行けば、彼の態度はまた良くなるでしょう」
「恩義? 何故だ?」
「さっきの戦いで、華さんが随龍の命を助けたからです。ね」
華はおずおずとうなずく。訓は驚いた。
「いつの間に……」
「ほんの偶然なの。随龍さんが木の間から敵の様子を窺っていて、槍で襲いかかられそうになっていたから……鉄砲で撃ったんです」
「何にせよ、あの狡猾な男に恩を売れたのは喜ばしい」
文懐が大きな声で華を賛辞する。華はまた恥ずかしそうにうつむいた。
「それでは、明と華に兵糧の相談を任せよう。燈、予算の上限を教えてやれ」
「はい」
息子を見る燈の顔はいささか嬉しそうだった。
「さて! 仕事にとりかかるとするか。敵を迎え撃つにも準備がいろいろと必要だ。いろいろとな」
文懐が立ち上がるのに合わせて、家臣たちも腰を浮かせた。
「全軍十人ほどの部隊に分けて、見張りと罠作りに専念させろ。いつ敵が攻めてくるか分からない。笛の解釈の仕方も覚え込ませるように」
兵士たちの長となる十数人の武将は、声を揃えて返事した。




