第4章 19 (順化宮廷にて)
反乱軍が一時であれ正規軍を押し返したという報せは、やがて順化にも伝わった。明命帝は自室で密かにこの報告を太利から受けた。明命帝一人に固い忠誠を誓う幼馴染みの太利だからこそ、明命帝は怒りを落ち着けて聞くことができた。両大臣などが側にいたら、気詰まりで仕方なかったろう。キリスト教徒寄りの旧臣どもが、目だけで自分を嘲う姿が容易に目に浮かんだ。
太利はやや神妙な顔で明命帝の足下にひざまずいている。自分の失敗ではないとはいえ、明命帝を失望させるのがいたたまれないらしい。
「大龍将軍でも、初手で叩き潰せなかったか」
明命帝は立ち上がった。冠の珠がしゃらしゃらと音をたてる。初めは耳障りで、人払いをしては頭から取っていた。
今では音が鳴っているかどうか気づかないほど、当たり前のものになった。
「将軍には心強い後ろ盾がいるからな。案ずるほどではないと思うが、」
絢爛豪華な室内に、明命帝はわざと無造作に抜き身の剣を置いていた。そのせいで、よく侍従長にお小言を食らう。しかし何年経ってもその剣を然るべき所に保管する気は起きない。
絹を床に敷き、その上に放り出された宝石を散りばめた剣。成人する前に、父嘉隆帝が息子のために職人に作らせた逸品だ。これで、太利とよく組み打ちをした。鄭氏の残党の討伐にこっそり参加した十六の春にも、この剣が大活躍した。
時々、振ってみてその感触を確かめる。自分はまだ戦える人間だろうか。ぶよぶよと太った愚鈍な皇帝に成り果てていないか。今朝は、剣が少し重く感じた。腕の力が落ち始めているのだと気がつき、怖くなった。
父、嘉隆帝を超える名君になろうと常に意識して生きてきた。宮廷の中でも町中でも、父の人気は絶大だった。わずか三十年ほど前の阮朝建設が既に神話のように尾鰭をつけて人々の間に広まっていた。それに比べて自分はどうだ? 凡庸な二代目。融通の利かない勉強人間。どれも、宮廷内の人間が囁いていた明命帝の人物評だ。
嘉隆帝と明命帝の最大の違いは、戦を経験したか否かだ。わずか九歳で一族全員を殺された父の巻き返しは、神がかっていると言ってもいいほどだった。外国人の支援をとりつけ、あっという間に土地を奪還し、西山阮氏を滅ぼした。父は総大将としても有能で、西洋の戦い方も積極的に採用し、敵を驚かせた。そんな英雄的偉業を、乳母や大臣から聞かされ続けた。
父が死に物狂いで戦った末に勝ち得た王座を、明命帝は何の苦労もなく受け継いだだけだ。意地の悪い揶揄が、即位した時から頭の中で響いている。誰が面と向かって言ったわけでもない。だが、死んだ黎文悦の強硬な明命帝への反発だったり、至る所で頻発する反乱であったり、様々な事象が明命帝の自信を傷つける。退位を迫る。それに抵抗するために明命帝は学問に没頭した。好きだった格闘も控え、書物を読みふけり清から招いた学者と議論した。おかげで、儒学の知識と探究心だけは誰の追随も許さない。
それでも、何かがまだ足りない。明命帝が真に阮朝大南国の皇帝と認められるために、何か大きな偉業を成し遂げる必要がある。そうした焦りが明命帝の胸に渦巻いている。
「もし、反乱が成功してしまったら……」
「そのようなことを考えられますな」
太利がたしなめた。だが悪い想像は止まらない。阮朝が断絶し、黎朝になる? わずか一代で無様な最期を迎えた西山阮朝のように。屈辱的だ。先祖に顔向けできない。
「何が何でも反乱を鎮圧致しましょう。所詮黎文懐は地方土豪の一人です。大南全土を支配する何の正統性も持っておりませぬ」
「そうだな。だが……」
正統性を取り沙汰できるのは平和な時だけだ。武力で全てを制圧する者が現れれば、それが正義となる。
「王姉妹も文懐の反乱鎮圧に向かわせた。あの女どもなら決して油断はしないだろうし」
「大龍将軍もまだご無事のようですし」
「両将軍に釘を刺しておいた方がいいな。鎮圧に失敗すれば、破滅するのはお前たちの方だと」
「飴も用意しておかないと」
「王姉妹への報償は既に準備している。あとは当人たちが結果を出すだけだ」
「残りの将軍たちは?」
「北部の反乱の後始末で忙しないと聞いている。当分はそちらに集中させた方がいいな」
太利がうなずいた。
「他に何かあるか?」
「良い報せと、お耳に入れておきたい懸念が。どちらから先に?」
「悪い方を聞かせてくれ」
「かしこまりました」
太利は顔を上げた。明命帝と同じ年の割に、彼の相貌にはほとんど加齢の影響がみられない。皺一つない肌に、昔と全く変わらない顔つき。言葉を変えれば、昔から老け顔だった。
「ピニョーというフランス人宣教師をご存じでしょうか」
! ご存じどころではない。
「西洋人どもがのさばるきっかけを作った忌々しい司祭だな」
「そうです。で、彼の息子が反乱軍に参加しています」
「私はキリスト教の教義にあまり詳しくないんだが、司祭というのは子どもを作っていいのか? 仏教徒の僧侶のような奴らだと思っていたのだが」
「その認識で間違いないと思いますよ。ただ……例外はどこにでもあるのでしょう」
「なるほど、破戒僧か」
半ば嘲りを込めて、明命帝は呟いた。
「そいつの息子はどんなだ。会ってみたのか?」
「見た目は完全に西洋人ですね。彼も司祭の助手についています。嘉定までわざわざやってきて反乱軍に加わった経緯があるので、かなり反逆の意志は強いと見られます」
「ほう」
「ピニョー司祭の息子というと、心配なのはやはりフランスとの関わりでしょう。父親のように大規模な軍事援助を文懐に行う可能性もあります。引き続き動向を見張ります」
「そうしてくれ。好機があれば、文懐と共に殺せ。……いや、生け捕りでもいい。ピニョーとやらの顔を私はちゃんと見たことがないんだ」
さぞいけ好かない顔をしているのだろう。
「簡単に言ってくれますね。生け捕りはただ殺すよりも難しいのに。……まあ、力を尽くします」
「よろしく。で、良い報せは?」
「フランス行きの船を沈めました」
明命帝は太利をまじまじと見つめた。
「本当か?」
「陛下相手に嘘は申しません」
「どうやって? いや、何故?」
「フランスに援助を依頼する文を乗せて出発する船だったからです。狼たちに盗ませた火薬に火をつけて放り込みました」
太利はにやにやしている。
「流石だな、頼りになる」
「お褒めいただき嬉しいです」
胸に手を当て、太利は頭を下げた。慇懃な仕草に明命帝の顔は却ってほころんだ。
「陛下の元を辞してすぐに文懐の近くに戻ります。吉報をお待ち下さいね」
「ああ……」
友人が去ろうとしている。その直前に、明命帝は呼びかけた。咄嗟のことで、頭にずっと置いていたことを初めて口に出す。
「お前が、私の側にもずっといてくれたらよかったのに」
太利は一瞬目を瞠り、それから顔を緩めた。
「体があともう一つほどあれば、私も陛下のお側にいられたでしょうに」




