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第4章 17

 事態が動いたのは翌日のことだった。鋭い笛の音が辺り一帯に響き、皆が身構えた。野原で槍の訓練をしていた兵士たちも、木を削って武器をこしらえていた子どもたちも。夜の見張りを終えて眠っていたキリスト教徒の男を、その妻が蹴飛ばして起こした。

 霧が出ている。その日は朝からからっとした晴天だったのに。皆怪訝な顔をして霞んだ森の向こうを睨んでいる。しかし視界が著しく悪い。すぐ側に敵兵が潜んでいても分からないではないか。

 鎧を着込み、大刀を携えた文懐が、燈の反対をはねのけて霧の中に突入していく。訓も華や明と共にその後を追った。

 何もかもが白い。耳を澄ませ、奇襲を警戒した。木の上から福と思しき少年が甲高い声で文懐たちに襲撃を知らせた。視界の悪さで背後をとられた前線の兵士たちがかなりいるらしい。文懐が退却を命じ、誰かが木の上で笛を吹いた。多人数の足音と金属の擦れ合う音が響く。

 華はいつでも撃てるように、鉄砲に弾を込めていた。道の途中で、やられた兵士たちが何人も木の根元に転がっていた。

 文懐たちが森の外れまで着いたところで、霧は急に晴れた。

 目の前に広がるのは、圧倒的な光景だ。メコン川下流域の水田に輝くような鎧の軍隊が勢揃いしていた。彼らと引き比べると、森の中から窺う反乱軍はいかにも弱そうに思える。歩きにくそうな水田の上を、苦もなく滑るように近づいてくる兵士たち。

 文懐を護衛する嘉定の兵士が、鉄砲を構えた。文懐がそれを制し、一歩前に進み出る。対する宮廷軍に鉄砲部隊は一人もいない。皆、青い房のついた槍をかざしている。銀の穂先がぎらぎらと太陽の光を反射して輝いた。

「お下がりください」

 護衛が文懐に囁いた。

「ここは我々が……」

「無駄なことはするな。大砲が何台もなければ、あの大群は追い散らせない」

「でも、このままでは……!」

「大将が隠れてどうする? 大龍とやらのご尊顔を見ておきたいのだ」

 水田の方から、雷のような声が轟いた。

「よくぞ言った! それでこそ一軍の将である」

 文懐が口元を歪めた。後ろから鼻を鳴らす音がする。訓が振り向くと、マルシャンが鉄砲を持って立っていた。

「嘉定総鎮の養い子とやら、私も一度会ってみたかったぞ」

 水田の兵士たちがきれいな動きで中央を開けた。彼らの背後から音もなく現れたのが大龍将軍だろう。

 噂通りの大男だった。地面に届く程の黒々とした髭を編み込んで鎧に幾重にも巻きつけ、冠からも溢れ出す髪を後ろになびかせる様は正に龍。鼻っ柱の高さと剥いた瞳に宿る光の強さは人間離れしている。あの目で睨みつけられただけでも怖じ気づいてしまいそうだ。

 文懐も背の高い方だが、大龍と対峙すると大人と子どもほどの差があった。

「我が名は貉大龍である。皇帝陛下の命を受けて、そなたたちを討伐しにはるばる参った! 大南を害する者は例え同じ龍仙の民でも容赦せぬ」

「望むところだ」

 訓にだけ聞こえるように文懐が呟く。

「私は黎文懐。阮朝創立最大の功労者、黎文悦の遺志を継いでここにいる!」

「賊軍と成り果てるのが、かの副王の遺志とは恐れ入った」

 大龍が嘲った。後ろの兵士たちが一斉に笑うのが不気味だ。明と華がひるんでいる。

 いつの間にか味方の野次馬も増えていた。木の上にセシリアやピエトロがいるのに気づき、訓は内心毒づいた。どんなに危険か子どもは分かっていないのだ。

「反旗を立てたのは皇帝が間違った判断を下したからだ。国を閉じ、強権で大南全体を制圧するのが善政か? そうではないだろう! 我々はこれまでの生活を守るために戦うのだ!」

「生活を守るためとな。では聞くが、そなたらの戦いに未来はあるか? そんなちっぽけな軍隊と貧弱な兵士で、何が守れる? 皆殺しにされるだけだと民に話したか? 皇帝陛下に従っていれば、命だけは約束されていたというのに!」

「命だけは!?」

 文懐は怒りを込めて高らかに非難する。

「そんな、家畜のように生死さえ皇帝に握られて何が龍仙の民だ! 我々には商売を営む自由も、神を信仰する自由も遙か昔からあった。今さら明命帝ごときがそれを奪う道理はない!」

「皇帝陛下を愚弄するか」

 突然、大龍の体がぐっと膨れ上がったように感じた。

「今ここではっきりと言っておこう。明命帝には、皇帝になる資格がない。奴は民の声に耳を傾けず、安穏とした都育ちで、何一つ自身の手で勝ち取ってはいない。ただ偉大な嘉隆帝の冠を、息子であるという理由で受け継いだだけ。違うか!」

「それ以上は許さん!」

 大龍はどこからともなく巨大な鉄槌を受け取り、頭上に高く振り上げた。

「皇帝陛下は我らの心。龍仙の末裔の名にかけて、そなたを今ここで処刑する」

 護衛が慌てて文懐の前に飛び出した。文懐が一喝する。

「下がれ!」

 文懐は大刀を鞘から抜き、勇敢にも大龍の前に進み出た。無謀だ。訓はそう思った。きっと体格差だけでなく力の強さが違いすぎる。龍の末裔と名乗りを上げたのには必ず意味があるはずだ。

 大龍を見上げ、文懐は不敵に笑った。

「そのちっぽけなトンカチ、俺の頭に降ろして見ろよ。案外見かけ倒しかもしれないぜ?」

 大龍の長い顔が怒りで赤く染まった。風を切る鈍い音がして、あまりにも重い鉄の塊が振り下ろされた。

 森の中から悲鳴が上がった。訓も一瞬目をつぶり、粉々に頭を砕かれた文懐が地面に倒れている情景を覚悟した。



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