第4章 14
自分の家に戻ったのは、翌朝のことだった。もうここに戻ることはない。残された荷物の整理をしにきたのだ。
ラテン語の写本を重ねた塚、数回しか袖を通したことのない司祭の服。書き散らした楽譜ももう使わない。焼き捨ててしまおうかと取り上げて、結局やめた。感傷に逸って思い出まで無くすところだった。
屋根から吊した保存食や普段着など、必要になりそうなものは包んだ。誰かが中を覗き、いつの間にか住み着いてしまってもいいように、書物は隅に片し、軽く床を掃き清めた。蠅やとんぼが好き勝手に中に入ってきてはあちこちを物色していた。
もう戻ってこない?
俺は自分がどうなると想像しているのだろうか。少なくとも、反乱が成功を収め、意気揚々とここに凱旋する未来を描いたことはない、全くない。かといって自分が死ぬとも何故か思わなかった。いつの間にか当初の意志に反して戦の渦の中心ともいえる場所に引きずり込まれてしまったのだが、まだ実感が湧かないらしい。おそらくは、敵に喉元に刃を突きつけられるまで、こうしてぼんやりとしたままなのだろう。
帰宅した理由はもう一つあった。
膝ほどの大きさの、木の箱が行李の中にひっそりとしまわれている。蓋を開けるとかび臭い埃が舞い上がり、しばらくくしゃみが止まらない。中にあるのはがらくたばかりだ。子どもの時に拾った宝石のような石や、折れた筆、すっかり錆びてしまった針。無造作に箱の中をあさって見つけた。
それは、未だに金色に輝いていた。小さなロザリオ。朝の光にかざすと星のようにちかちか瞬いた。
「やっぱりここにあったのか」
訓は独りごちた。子どもの頃誰かに貰って、しばらく首に下げていた。大事にするよう高文に言い含められ、いつしかこっそりしまい込むようになった。意地悪な年上の子に奪われそうになったこともあったからだ。教会から与えられたロザリオとは全く別種の輝きを持つそれは、悪い意味で目立っていた。
実に二十年来のロザリオには、いっぺんの曇りもない。元々模様もない簡素なつくりだ。いや……下の方に何か彫られている。漢字だ。何と書いてあるのだろう?
訓はロザリオに顔をぐっと近づけた。近頃目がすぐ霞む。段々明るくなる家の中で、しばらく黙ってロザリオを睨んでいた。
不意に、耳に音楽が飛び込んできた。
はっと顔を上げた拍子に、肩にとまっていたとんぼが飛び立った。聞き覚えのある旋律が朗々と外から流れてくる。
外に飛び出すと、朝露が彩る草むらを踏んで、聖歌隊の少年少女が歌っていた。
訓は茫然と立ち尽くした。
聖歌隊は二列に並んで、教会のある方角を向いていた。家から出てきた訓は彼らの背中を見続けることになる。ピエトロだけが彼らの前に立って指揮を執っていた。いつの間に合唱の指揮など出来るようになったのだろう。訓が振っていたのを見よう見まねで覚えたのか。
大南語の歌が辺りに響く。何事かと起き出してきた若い兵士が集まってきた。訓からはピエトロの笑顔だけが見える。
側に誰かがやってきた。華だ。訓の方に身を傾け、楽しそうに聖歌隊の背中を見守っている。一列目にひときわ低い背中があった。華に指差されるまでもなくすぐに分かった。翠瑠だ。
愛だとか、精神の高揚だとか、聖らかな魂だとか__一つ一つの詞を丁寧に歌い上げる子どもたち。誇らしさが伝わってきた。自分たちがこれだけのことをできるのだと、神に近づくために歌っているのだと彼らは全身で、声で表現している。
「うるさいぞ!」
怒声が飛び、歌は止まった。
寝ぼけ眼のカテキスタが不機嫌な顔で聖歌隊のところにやってくる。
「ごめんなさーい」
ピエトロは肩をすくめて笑う。
「朝っぱらからぎゃあぎゃあと……」
「あれ、そんな風に聞こえちゃいました? もっと精進します!」
聖歌隊の間で笑いが弾ける。困惑したカテキスタはますます怒りを募らせた。
「今は非常事態だ。歌など歌っている暇があったら武器の一つでも磨け!」
背を向けたカテキスタが去っていった後で、ピエトロが悪態をつく。
「僕らは召使いじゃありませんよーだ」
「その辺にしとけ」
「あ、先生。おはようございます」
子どもたちが一斉に振り返る。気圧されたのか華が二、三歩後ずさりした。彼女がよろけないよう訓はそっと背中に手を回した。
「何をしていたんだ?」
「朝の練習です。毎日続けろって言ったのは先生じゃないですか」
「平時はな」
「今だってそう変わりゃしませんよ。ところで、どうでした?」
「何が?」
ピエトロはにんまりと笑った。
「僕らの歌ですよ!」
「……まあ、よかったんじゃないか」
アンヌやマリアが顔を見合わせて笑っている。セシリアは口を引き結び、何故か悔しそうだ。翠瑠の顔は見えなかった。
ピエトロが真面目な表情で近づいてくる。
「今日、英路さんのお葬式をやろうと思っています。先生が立ち会ってくれませんか?」
「そんな暇が俺たちにあるかな?」
教会や反乱軍の面々が許すだろうか。
「無ければ作って下さい。ほんの少しでいいんです」
十人あまりの子どもが訓と華を取り囲む。
「せっかく、英路さんのロザリオを持ち帰ってくれたじゃないですか。だから、翠瑠のためにもちゃんとしたお別れがしたいんです」
そう言われて断れる者がいるだろうか?
「分かった。ただ、隠れてやった方がいいだろうな。反乱軍の死者はすぐに土葬する決まりなんだ。特別扱いはもめ事の元になる」
「場所は?」
「森の中とか……」
ミゲルが提案する。
「英路さんと翠瑠の屋敷では駄目?」
「馬鹿だな、それこそ英路さんの親に見つかって大騒ぎになるじゃないか」
その時、翠瑠がはっきりと言った。
「ここがいい。この家の、前」
「そこでいいの?」
「うん。兄様が一番好きだった場所だから」
そう言って翠瑠は少しだけ笑みを唇に乗せた。やっぱり十歳ほど大人びて見える。
「春も呼ばなきゃ」
「そうだね。あの子、ひどく落ち込んでたから」
「聖水を教会からくすねてこなきゃ」
「こら!」
訓は手を叩いて話を止めた。
「葬式は後だ。昼飯の時間にでももう一度ここで集まろう。それまで、割り当てられた仕事に集中しなさい」
「はあい」
聖歌隊は元気に返事をして、さっと走っていく。
「良い子たちですね」
華が眩しそうに目を細めた。
「そうでしょう。自慢の生徒たちです」
「訓さんがどんな教え方をしているのか、見てみたかったです」
「そんないいものでもなかったが……」
「慕われてるのがよく分かります」
くすくすと華に笑われるのは、嫌ではなかった。




