5(フランス語の授業)
訓の険悪な雰囲気を何とかやり過ごした子どもたちは、学校に急ぐ。社 全体に響き渡る朝の鐘の音が始業を告げる。時間割は、初級/上級ラテン語・フランス語、字喃や漢文の読み書き、公教要理、そして科学と分かれている。主に教えるのはカテキスタだ。科学以外の全ての講義を代わる代わる行う。科学は、職業医師が特別に教えにきてくれる。
最も人気のある教師は、嘉定から来た若きカテキスタの明だった。今日は朝から明のフランス語講義だと言うので、女子たちが張り切っている。
「下らないな」
背もたれのない椅子に腰掛け、簡素な長机に肘をついたピエトロが鼻を鳴らした。彼の視線の先には最前列に陣取ったアンヌたちがいる。カトリーヌに髪を可愛く結ってもらって喜んでいるようだ。
講義の席順は決まっていない。ピエトロはジャンなど聖歌隊の男子と並んで座ることが多い。
「何だよアンヌの奴、耳飾りまでつけてさ」
「明先生は優しいから、飾りをしてても怒らないしね」
のんびりとミゲルが呟く。
「優しいだけの男が何だってんだ」
「おまけに顔も、頭もいい。諦めろ、ピエトロ」
にやにや笑うジャンに顔を覗き込まれ、ピエトロはむくれた。
「明はアンヌなんて、相手にしない!」
「それ、アンヌに言うんじゃないぞ。お前が嫌われちまうからな」
始業の鐘が鳴った。少し遅れて、ざわめきの中明が現れた。
「遅れて申し訳ない。ちょっと……野暮用があってね」
セシリアが敏く異変を察知した。
「どんな用ですか?」
「まあ……いろいろあって……今は言えないけど」
子どもたちが騒ぎ出した。明が慌てて手を上げる。
「待ってくれ、ほんとに大したことじゃないんだよ。ただ、怪我をした人が遠くからやってきて、この社に住みたいと言っているんだ」
騒ぎはいっそう大きくなった。ピエトロは仲間と顔を見合わせた。面白そうな話じゃないか。
「明先生! どんな奴が来たの?」
「一人?」
「そいつ、本当にここに住むの?」
「後で、司祭様からお知らせがあるよ。さあ、授業を始めさせてくれないか?」
明が溜息まじりに呼びかける。女子から先に静かになった。
「今日は僕にとって最後の授業だね。フランス語を君たちと一緒に勉強できて本当に嬉しかったよ。僕のことは忘れても、フランス語のことはいつまでも忘れないで下さい。きっと、これからの人生で役に立つから」
明は生徒たちを見回して、微笑んだ。
面白くない。
「ちょっと感動的に締めようったって、その手には乗らないぞ」
教科書に突っ伏してピエトロはぶつくさ文句を言う。
「そうかな。ぼくは感動しちゃったよ」
「ミゲル! 大体、フランス語なら訓先生の方が上手いじゃないか」
「十八の先生と四十手前の先生を比べちゃ駄目だ」
「なあ、それよりも」
トマスが言い合いに口を挟んだ。「一体どんな奴が来たんだと思う?」
「よっしゃ、見に行くか」
「ピエトロ……授業は?」
「自主的休講に決まってる」
ジャンが呆れてピエトロとトマスを見た。
「本気か? 訓先生に叱られるぞ」
「ばれなきゃいいのさ。__明先生!」
ピエトロが手を上げて叫ぶと、明はすっと口をつぐんだ。
「僕、朝からずっと体調が悪くて……休んできてもいいですか?」
「嘘! 朝練に参加してたじゃない!」
驚いたカトリーヌが大声を上げた。ピエトロはうろたえることもなく大袈裟に咳き込んで見せた。
「実は……かなり、無理してたんだ」
明が尋ねる。
「どんな風に悪い?」
「体がだるくて、あと、頭が痛いです」
トマスがピエトロの額にさっと手を当てた。
「熱があるみたいです」
明は眉尻を下げてうなずいた。
「風邪みたいだね。周りにうつすといけないから、静かなところで休んでおいで」
「あ、じゃあ、おれが付き添います」
トマスは間髪を入れずそう宣言し、ピエトロと共に立ち上がった。乗り遅れたジャンが恨めしげに二人を見上げる。
「何?」
「後で、オレにも教えてくれよ」
「勿論」
ピエトロはかがみ込んで囁き、咳き込むふりをしながら学校を出ていった。