第4章 12
文懐が微笑みかけ、訓の肩を抱いた。仲の悪い同僚たちが顔をしかめているのが遠目に見えた。
「あなた方はピニョーを知っているか。阮朝建設の立役者だ。私の父、黎文悦も彼に助けられた。嘉隆帝軍の大南人にとっても良き友、素晴らしき教師であった」
訓は深呼吸した。きまりが悪い。
「我々は、その後継者を味方に得るという幸運に浴した。阮訓、アドラン司教ピニョー・ドゥ・ベーヌの一人息子だ。非常に聡明で外国語にも堪能な彼は、嘉定に来てくれた当初から我らキリスト教徒の味方であってくれた。そして、必要であればフランスとの交渉にあたってくれる」
訓は固まった。そんな重要な任務、マルシャンにも文懐にも命じられたことはない。呆れて文懐を仰いだが、彼は無視して続けた。
「勝利の条件は全て整った。後は、順化に向けて進軍するのみだ。あなた方も我々と共に戦ってくれるな? 神のために、平和のために。大切な家族のために」
文懐の鼓舞に応じる声が爆発した。
文懐は、座らされている捕虜に近づいていった。訓も思わずついていく。
翠瑠の両親の前で立ち止まり、文懐は大声で言った。
「我々に加わるのなら、キリスト教徒を傷つけた罪は許してやる」
翠瑠の父親が唾を文懐の足下に吐いた。
「お前たちは何を言ってもただの逆賊だ。じきに罰が下る」
文懐は首を傾げた。
「それがお前たちの決断か?」
大刀にさりげなく手を伸ばす、文懐に訓は囁く。
「彼らは英路の父母なんです」
「そうなのか」
文懐はちょっと考え込むように顎に手を当てた。
「では、もう一度だけ機会をやろう。お前たちの息子は宮廷軍に殺された。息子の敵を討ちたくないか?」
母親がはっと目を見開いた。皺の目立つ顔が悲しみに歪む。しかし父親は却って腹を立てたようだった。
「馬鹿な息子だった。皇帝陛下に背くような息子はいらん!」
文懐が大刀を抜いた。
「それが父親の言うことか!」
彼は激怒しているようだった。「息子を愛していなかったのか。英路は父に生き方を否定されて悲しいと言っていた。お前が嘉定に英路を追い出したと聞いた!」
すがりつくような泣き声が後ろで聞こえた。咄嗟に訓は振り返る。華やマリアに抱き留められた翠瑠が涙を流しながら遠い両親に向かって両手を伸ばしていた。
「……娘もいるんだったな。娘を守るために戦う気概はないのか」
「キリスト教徒のために差し出す命など、この体のどこにもない!」
文懐が大刀を振り上げた。
「待って下さい!」
訓は大刀と二人の間に入り、いっぱいに開いた手を文懐に突き出した。文懐は驚いて一歩下がる。下ろされた刃は地面に勢いよく刺さった。
辺りは静かになっていた。荒い息を吐きながら、訓は自分がまだ生きていることに感謝した。
文懐が刃を引き抜く。鈍い音がした。
「危なかったな。訓まで殺してしまうところだった」
先ほどに比べ、いくらか冷静さを取り戻しているようだ。
「何故こんなことをした?」
訓はきっぱりと言った。
「英路の両親を赦してやりましょう」
「何故?」
「それがキリスト教だからです」
野次馬がざわめいた。翠瑠の両親も不機嫌そうに眉をひそめている。
「ざ……罪人こそ救済する価値がある。それが、我らが信仰してきたキリスト教の教えだったでしょう。どんなに武装しても、何が起きても、信徒の心性だけは決して変わらないのだということを異教徒に示してやるのがキリスト教徒の勝利なのではありませんか。無意味な血を流す必要はないはずです」
文懐はすっと目を細めた。訓は内心戦く。いいように解釈しているはずがない。文懐の指示した殺戮を否定したことになる。
「……宮廷軍は敵です。勿論。でも、彼らは敵ではありません。隣人です。隣人を愛せよとキリストは言ったではありませんか」
文懐は黙っていたが、もう一度二人に目をやり、ゆっくりうなずいた。
「いいだろう。自由にしてやる。ただし、次はない。我らの民の誰か一人でも傷つけようものなら、容赦なく殺す」
縄を解かれた父親が、苦々しく呟いた。
「感謝なんてすると思うか?」
訓と文懐は聞こえないふりをした。ほっと群衆の緊張がほどけ、さざめきが戻ってくる。
「どこへでも行くがいい」
そう言い捨てて文懐と訓が背を向けた時、信徒に押さえつけられた翠瑠の母親が叫んだ。
「一生呪ってやる! あ……あんたのせいで、英路は死んだ! あんたが、キリスト教なんかにあの子を巻き込んだせいで!」
明らかに、訓に向けられた呪詛だった。文懐がちらりと顔を見て、「どうする?」と口の形だけで尋ねてきた。
何も答えられない。丁度、翠瑠の母親と同じことを考えていたからだ。




