第4章 8
訓が部屋を出て行った直後、文懐は近くにいた家来に尋ねた。
「一体何があったんだ?」
「さあ……」
待っていると、廊下から顔を出した者が報告した。
「前通訳の妹が忍び込んでいたそうです。何でも、兄が死んだことを知らなくて……」
「ああ」
文懐は小さく溜息をついた。それであの大声か。心中察すると簡単に言うには、自分に責任があり過ぎるかもしれない。
宮廷軍との衝突で出たこちら側の死者はを十数人以上だ。それぞれに家族がいて、こうして今ひどく悲しんでいるという事実に気づかないふりをしていた。いや、本来ならば気にかけるようなことでもない。上に立つ者がいちいち部下の死を悼んでいては何も前に進まない。弔いは司祭や家族の役目だし、文懐がすべきはあくまでも生きている民や家来を守ることだ。残された生者が最優先、それが鉄則だ。
そうと分かっていても、剥き出しの悲しみを見せつけられるとどうしても動揺してしまう。特に子どもには弱い。訓の後を追わなくてよかったとつくづく思う。
あの男も、辛そうだったな。昨夜の訓を思い出した。フランス人司祭につれられて入ってきた訓は、英路を見てすぐに顔を歪め、みるみるうちに血の気が引いていった。その場で倒れるんじゃないかと不安になるほどだった。その時はただの西洋人にしか見えなかったから、血を見たことがない司祭が動揺しているだけだと思った。
今朝またやってきた時には、取り澄ました顔で控えていた。昨夜の衝撃などなかったように見事に感情を抑えていた。それだけに、どんな人間なのかとやけに気になり、強引に部屋から連れ出した。それに、ピニョーの息子という特殊な立場の人間に興味もあった。文懐はピニョーを見たことがない。文悦から彼の偉業とやらを聞かされていたばかりである。
従順ではあった。人を騙すような人となりでないことも容易に想像がついたので、通訳として信頼してもいいと判断した。だが、分からないこともある。例えば、マルシャンという司祭との関係に話が及ぶとあからさまな拒否反応を見せたこととか。神経質そうな印象もあった。そして、自分の話はあまりしたくないようだった。
彼が、おれにとってのピニョーということになるのかな。マルシャンを脇に置いて文懐はそう考えた。父は、ピニョーを「メシア」と表現した。阮訓もそうだろうか。メシアは何をもたらしてくれるのだろうか?
マルシャンがフランス語で何事か言ってきた。意味が分からないので無視したが、話が中断されたことに苛立っているようだった。勝手に言わせておけばいい。どのみち訓がいなければ話は進まないと思っていたら、彼が戻ってきた。一緒にいるのは燈の息子明だ。訓の無表情に対して明は沈んだ顔をしていた。
「中座してしまい申し訳ありません……」
低い声で訓が謝った。
南圻の地図を広げ、北上の道筋を確認する。連れて行く兵士の数は。兵糧の運搬は。外国との折衝に誰を立てるか。決めるべきことは山ほどあった。
夜になって、ようやくマルシャンがフランス皇帝に渡すという書簡を完成させた。訓に読み上げさせて、いくつかの文章を追加・削除させた。城は隅から隅まで慌ただしく働いている。




