第4章 6
「ここでいいか」
文懐は自室を出てすぐの狭い通路で立ち止まった。窓もない、急な階段に腰を下ろすと不安な気分になる。人払いをしてまで文懐は何をするつもりなのか。
文懐が顔をぐっと近づけた。思わずのけぞる。訓の動揺を露ほども気にかけず文懐は言った。
「どこからどう見ても西洋人の顔だな」
それっきり、彼は口をつぐんだ。訓も何も言えなくて困った。至近距離で見ると文懐の日に焼けた顔にはそばかすが点々と浮いている。形の良い瞳はほとんど揺れ動かない。ずっと見つめられていると妙に気分が高揚してしまう。
部下や民に人気のある領主だと明から聞いた。整った顔だちとざっくばらんな物言い、素早い距離の詰め方に人は惹かれるのだろう。
ただ、軍を率いて国をひっくり返す将の器かどうかはまだ分からない。そもそも訓にそうした判定ができる眼がないからだ。昨夜初めて会ったばかりの訓を即座に通訳に任命する判断の速さは強みと呼ぶべきだろうか?
英路が心酔するほどの魅力があるのだろうかとふと考え、馬鹿馬鹿しくなった。あいつは昔からすぐ人を信用する単純な一面があった。真面目なのは確かだが、人を見る目があるとは言い切れない。
「__燈の息子から聞いたのだが、宣教師と大南人の間に生まれたんだって?」
「は、はい」
反応が少し遅れた。
「フランスに行ったことは?」
「ありません」
「じゃあ、どこでフランス語が話せるようになったんだ?」
「クレティアンテで育ったので、司祭に教育されました」
「ほお。ぺらぺら?」
「まあ、それなりには」
「大南語もちゃんと分かるんだな」
「勿論です」
「私は、長い間言葉に苦労した」
文懐は遠い目になった。
「私は北圻で育ったんだ。嘉定に来たばかりの頃は、周りの言葉が全く分からなかった。父上の手ほどきを受けて南圻の言葉を学び、三年ほど経ってようやく通訳なしに会話ができるようになった」
そう言えば、文懐の喋り方には少しばかりの訛りがある。気をつけていなければ分からない程度のものだ。
「文字にも困った。私の部族は文字がなくてね、字喃も漢字もちんぷんかんぷん。その上さらに西洋の言葉を学ぶ余裕などなかった。だから正直、あの司祭の話していることは全く分からなくてね……」
訓は黙って話を聞いた。
「意味のさっぱり分からない言葉を聞かされていると、いつも限りなく不安になる。自分が今とんでもないぺてんにかけられているんじゃないか、とか。そのために通訳を頼んでいるんだがね」
文懐は首を少し傾げ、訓に尋ねた。
「司祭との交渉の行く末は、君にかかっているのだ。君を信用していいだろうか?」
「……通訳に際して、嘘をつくつもりは一切ありません」
その回答に、文懐は満足そうにうなずいた。
「だが、どうして? 訓も聖職者だそうだな。あの司祭と仲が良いんじゃないか」
「それは誤解です!」
訓の剣幕に文懐は目を丸くした。
「変な表現をして悪いな。おれが気になるのは、聖職者はキリスト教の利益ばかりを優先するんじゃないかってことだけだよ。ほら、例のピニョーだって、折角連れてきた軍隊もキリスト教徒を守るためばかりに動員させたという噂だ」
「その話は心得ています」
偉大なるピニョーの慈悲深い計らいとして聞かされた。
「ですが、マルシャンはともかく、私はピニョーとは違います。信用してくれた相手を裏切るような真似はしたくありません」
「良い答えだ。期待しているよ、訓先生?」
文懐の放った呼びかけに息が詰まった。
「阮英路の師匠だったそうじゃないか。彼は何度も大事な思い出について聞かせてくれた。先生はこう言った、先生ならこうする、先生のために……。今やっと分かった。あれは君の話だったんだな」
文懐は立ち上がり、訓も促す。
「戻ろう、交渉が途中だった。あの場で忠誠を示してくれ」




