4(朝練)
翌朝、まだ薄暗い中、顔を軽く洗ってから訓は教会に赴いた。
住み込みのカテキスタも今はまだ宿舎にいる。誰にも見られていない今のうちに、訓は自分に割り振られた日課を遂行する。
といっても、朝は井戸で水を汲んで、水の入った金だらいを説教台の足下に置くだけだ。秘跡を行う際にいくらでも必要になる水を、切らさないようにするのが訓の役目の一つだった。
目を上げると、キリスト像と十字架が訓を見下ろしている。訓はひざまずき、両手を組んだ。
「私は信じます__」
そっと囁くと、胸にくすぐったさと喜びが忍び寄る。
「主が絶えず私の側にいて下さることを。主の遣わされた聖霊が私の胸に宿り、正しい道を示して下さっていることを信じます。あなたの御子イエス様のお心を継いで、本日も信仰の為に働けることを感謝します」
訓は目を閉じ、付け加えた。
「我々の信仰を脅かすものが、一日でも早く消え去りますように。アーメン」
教会を出ると、カテキスタとすれ違った。訓は軽く会釈したが、相手はそれに気づかないふりをした。ピエトロがどこからか駆けてきて、訓を呼んだ。
「先生、集合しました」
「おお、今行く」
集まった少年少女は整列しながらも小声でふざけ合っていたが、訓に気がつくと立ち住まいを正した。真っ直ぐ自分を見つめてくる子どもたちの顔を見渡し、密かに自分に喝を入れた。正直言って本調子とはほど遠い。昨夜の長話が祟って、眠気が体全体に貼り付いている。だが、それでも子どもたちの前に立つ時はだらけた様子を見せたくない。宣教に出る時よりも緊張感を覚える。
傍らに立つピエトロは欠伸ひとつしない。余裕のある表情で、自分が率いる仲間たちに笑いかけた。おまけに先程まで彼は、司祭たちの畑仕事を手伝い、幼子と鬼ごっこをして遊び、朝飯に汁なし麺とマンゴー一つを平らげていた。少年と中年の体力では比べ物にならないのだ。
「点呼します」
訓の方をちらりと窺い、わずかに目を合わせてからピエトロは張りのある声で皆に告げた。彼らが一斉に返事をする。それもまた辺りに響き渡り、群生する羊歯の葉を震わせた。
「ジャン」
「はい」
図体が一際大きい少年が返事をした。
「セシリア」
「はい」
「トマス」
「はい」
眠そうな目の少年はゆっくりと答える。
「マリア」
「あいつは遅刻だよ、多分」
ジャンがマリアの代わりに告げた。
「そう。次、カトリーヌ」
「はい」
癖毛をきっちりと結い上げたカトリーヌは、陽気で奔放に見えながら人一倍気配りが上手い。学校の小さな子どもたちからの人気は一番だ。
「ミゲル」
「はい!」
飄々とした、誰よりも背の高い少年は、びっくりするような大声で返事をし、それから口を押さえた。周りから笑いが漏れる。ミゲルはいつも突拍子もないことを口走っては場を和ませた。彼の邪気のなさには安心させられるが、時折、というか割と頻繁に妙な発言で空気を凍りつかせてしまうのが困り物。
「アンヌ……」
そこで初めて、ピエトロは言い淀んだ。
昨日話題に上がった大人しいアンヌは、ピエトロをしっかり見つめ返し、明瞭に発声した。失意のうちにあった素振りは少しも見せない。ピエトロの方がむしろ呆けている。
訓は、微かに頬を赤らめたピエトロの背中をそっと叩いた。
「あ、すみません。……マリア以外は揃っています」
「そのようだな」
訓は顔をしかめた。無断遅刻が許せないのだ。
「練習の前に……何かありがたいお言葉はありますか?」
ピエトロはにやにや笑っている。
「ない。後で司祭にでも聞きに行くがいい」
横一列に整列していた聖歌隊は、ばらばらと二人組を作った。歌う前の準備運動だ。体や口をほぐす必要がある。
二人一組で全身の柔軟さを競い、時には限界を超えて体を伸ばす手伝いをする。それから、子どもたちは地面に腰を下ろし、両足を上げた。しばらくその体勢を保つと、腹筋が震えて苦しくなる。だがそれでも耐え続けることで鍛えられる。その後、互いの腰や肩を叩き合う。この軽い震動が気持ちいいと、年寄りのようなことを言う奴もいる。
ひとしきり体操を終えた後、誰からともなく彼らは立ち上がり、丸く輪になった。指示を出すのはカトリーヌ。
「集中のち開放!」
彼女が叫ぶと、皆大きく返事をした。「集中!」の号令で、一斉に目・鼻・口を顔の中心に寄せる。ぎゅっと顔がしわくちゃになり、「開放!」で逆にこれ以上ないくらい顔をかっぴろげる。それを見守る訓は、何回かに一遍笑ってしまいそうになる。
その他に顔の体操を繰り返し、無理のない声量での発声練習の後に、やっと歌の練習が始まる。
歌う時は常に笑顔で。訓は毎日そう口を酸っぱくして教えている。聴かせるのは歌だけではない。表情から手足の先まで、全てが聴衆、ひいては神に見られていると思うべきだ。歌う喜びをめいっぱいに伝えるのも聖歌隊の意義だから、少しでもだらけたり暗い顔を見せてはいけない。
基礎曲として必ず歌うオリジナルコラールを歌ってから、ピエトロとカトリーヌが楽譜の束をめくった。
「今日は何を歌おうか」
ジャンが答える。
「『天地礼賛』は?」
「一昨日しこたま歌ったばっかりだよ」
「じゃあ、『遠い日の歌』とか」
セシリアが手を上げた。
「『平穏の鐘』がいいわ」
「そういや、しばらく歌ってないな」
「決まりね。男声は一部、女声は高低二部に分かれて」
並ぶ順番を入れ替える訓の袖を、誰かが引いた。
振り向くと、不在のはずの少女がいた。
「マリア?」
背の低い少女は、ぺこりと頭を下げた。
「すいません、遅刻しました」
「何かあったのか?」
「いえ、その__寝坊です」
訓は不機嫌になった。「何故寝坊した? 事情があるのかな?」
「ないです。ただ起きれなかっただけ」
「三ヶ月ぶり十回目だな」
「だから、すみませんってば」
マリアは悪びれもしない。開き直るその態度が気に入らない。
「謝ればいいってもんじゃない。他の子は遅刻していないんだから、お前もちゃんと来れるはずだ。違うか?」
「違いません」
「睡眠が足りないのなら早く床に入る。朝が辛いのなら、カトリーヌにでも起こしてもらう。そうやって自分で努力を……」
「してたから、三ヶ月は寝坊しなかったんでしょうが」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
マリアはまだ小声でぶつぶつ呟いている。
「もういい。発声練習をきちんとしてから合流しろ」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
木立の向こうに走るマリアをきつい目で見送った訓は、待っている子どもたちまでじろりとねめつけた。マリアに同情の視線を注いでいたからだ。
セシリアが、こっそり隣のカトリーヌに囁いた。
「先生、今朝は一段といらついているわね」
「まあ……しょうがないんじゃない」
「マリアが可哀想だわ」
「でも、庇ったらこっちも割を食うもんね」
「ほんとそれ。不機嫌な時に誰彼構わず当たり散らすのはやめてほしいわ」
「よせ。聞こえるぞ」
ジャンが振り向かずに二人をたしなめた。「誰が一番被害に遭うと思っているんだ」
「ジャンとピエトロでしょ。先生、男の子に厳しいから」
「確信犯かよ」
セシリアは自慢げに胸を張った。一度、くどくどと説教してきた訓に面と向かって怒りをぶつけたら、それ以降あまり怒られなくなった。いつだって世渡りに大事なのは、度胸と威勢だ。