第3章 11
「……あ」
明が城の奥に誰かを認め、声を漏らした。カツンカツンと靴を鳴らし、歩いてくる者がいる。
聞こえてくる声に訓の脳が反応した。まずいと思ったが、逃げも隠れもできない距離だ。
二つの言語を使いこなす者は、頭にそれぞれの言葉用の領域が分かれており、異なる話者と会話する度に頭の中が切り替わるのだと訓は聞いたことがある。英路や明らに真偽を確かめたことはないが、自分の経験だけで言うとそれは一理ある。フランス人になった気分になるのだ。
近づいてきたのは、マルシャン神父だった。随分久しぶりに会った気がする。向こうも訓に気がついて、大仰な笑みを浮かべた。
「これはこれは、ジョルジュではないか!」
ジョルジュとは訓の洗礼名である。普段滅多に使わない名前だ。すっかり忘れていたくらいである。
「どうも……」
「クレティアンテから消えたと聞いて心配していたんだぞ。まさか同じ所に集まったとは! 主のお導きに違いない」
マルシャンは訓の肩を抱き、強引に城の奥へと連れて行こうとする。
「丁度よかった。来てくれ、言葉が通じなくて苦労していたところなんだ。何でも、通訳の若者が不運にも死んでしまったらしくてね」
横を歩く明がひゅっと息を呑む。
「可哀想な魂に神の恵みあれ。いやはや、とんでもなく血気が盛んな連中だな、コーチシナ人というのは! まともな武器もないのにこの有り様だよ」
「あの!」
明がマルシャンに追いすがる。
「もしよかったら、僕が通訳をします! 訓先生はそっとしておいてほしい……」
「いいよ、明。それより翠瑠と華さんのところにいてくれ」
「でも……」
「いいから。翠瑠にはまだ何も言わないでくれよ」
「……はい」
明を見送ってから、訓は大人しくマルシャンと階段を登った。
周りの兵士に道を聞いて、たどり着いたのは最上階の拾い部屋だった。黎文懐の部屋だ。
扉を叩くと、「入れ」と声がした。湿った声だ。
「失礼します。マルシャン神父を連れてきました」
「ああ……」振り返った立派な身なりの男が訓を見ていぶかしんだ。彼が文懐に違いない。男前な顔が険しくこわばっていた。
「お前は誰だ?」
問いかける文懐の後ろを訓は見た。見てしまった。
「英路」
呆ける訓を誰かが小突いた。
「おい」
我に返ると、文懐が訓を真正面から見つめていた。
「父親か?」
「え? ……いいえ」
横たわる英路。目を閉じた英路。血の跡がまだ生々しい英路。自分の体がぐんぐん小さくなっていくような感覚がした。
「友人です」
やっとこれだけ言えた。文懐は視線を外さない。
「外に出て、気を静めてこい。泊まるあてはあるのか?」
そんなに誰も彼も心配になるような顔をしているのだろうか。
「その必要はありません……」
「聞いていることに答えろ」
「知り合いの屋敷に滞在することになるかと思います」
「そうか、ならいい。……ん?」
文懐はようやく、マルシャンの存在に気がついた。
「宣教師がきたのか……今になって」
文懐が英路をちらりと見た。




