第3章 6(明との再会)
道端で荷車をぼんやりと見ている青年がいた。目が合った瞬間、訓は大声を上げていた。
「止めてくれ!」
御者が驚いて手綱を強く引いた。つんのめって荷台から振り落とされそうになった。異常事態に青年が駆け寄ってくる。
姿勢を正した訓は彼に向かって叫んだ。
「明!」
翠瑠と華が顔を見合わせる。
「あら、この方が……」
アンヌが惚れるほど端正な顔だちの好青年は、ようやく止まった荷車に手をついた。
「訓先生じゃありませんか」
ぱっちりとした瞳をいっそう大きく瞠り、明が尋ねる。
「どうして嘉定に?」
「英路に会いに来たんだよ。手紙を貰ってな」
「ああ……」
振り返ると、御者がしかめ面で様子を窺っていた。
「ここで降りようか」
お詫びとお礼に少しばかりのお金を渡して、荷車と別れた。ぶつぶつ言いながら御者は馬に鞭を入れ、城に続く道を進んで行った。
「この子は翠瑠、英路の妹だ。この人は華。来る途中の社で助けてもらった」
「初めまして」
華が丁寧にお辞儀をした。明はしばらくぼうっとしていたが、はっと我に返り頭を下げた。
「あ、あの、こちらこそ」
「明さんですね。お話は窺っております。将来有望で素敵な司祭様だって」
「いえ、僕なんてまだただの同宿で……」
明の顔は少し赤い。
「そ、それで? 英路に会いたいとか?」
「ああ。城にいると聞いたんだが」
「そうらしいですね。よかったら案内しましょうか」
「いいのか?」
「ええ。キリスト教徒への警戒は薄いですからね、割と簡単に入城できると思いますよ。それに、僕は文懐様とお会いしたことがあるし」
「何だか悪いな」
「あら、最初から期待していたくせに」
華が笑った。明の視線がちらちらと彼女に向く。
「これから家に帰るところなんです。お茶でもお出ししましょうか? 長旅で疲れたでしょう」
「わあい」
喜ぶ翠瑠を見て明も微笑む。
「お兄さんのためにここまで来たんだね。偉いね」
「帰った後が怖いけどな」
翠瑠の両親がキリスト教を嫌っていることは、明も承知していた。
「英路の話をしてやれば、怒りも逸れるんじゃないですか。勘当したと言えど、戦に加わったと聞けば心配でたまらないでしょうからね」
立ち話をしている訓たちの横を、西洋人の集団が通り過ぎていった。彼らは興奮して辺りの活気ある景色を見回し、ぺちゃくちゃとしゃべくり合っている。
「僕の家は嘉定の土豪なんです。西山の乱ではいち早く嘉隆帝軍に味方して、黎文悦様の手下として活躍したそうです。だから、今でも嘉定総鎮との繋がりが続いています。またキリスト教仲間でもありますからね」
彼の家まではまだ遠い。今日は反乱に家族を送った老婆と対話しに行っていたのだという。
「昔から嘉定は宮廷の影響が薄いでしょう。宮廷への忠誠なんて、ほとんどの民が持ってないですよ。それよりは街にごろごろいる外国商人や宣教師の方が親しく感じる訳です。税金を取り立てたり口やかましく戸籍を出せと喚く役人よりは、商売をしてくれる相手の方がそりゃあいいですよ」
嘉定は商人の町なのだ。権威や道徳よりも利益が重視される。
「それなのに、明命帝は鎖国するおつもりだそうじゃないですか。冗談じゃない、皆怒り心頭ですよ。今西洋人やシャム人との関係を断ち切られてしまえば、生活が危なくなってしまう」
「だから、皆文懐様の反乱に呼応しているんですね」
華が呟く。
「私の社も、西洋人のおかげで随分と暮らしが便利になりました。でも、いずれは西洋の物が取り上げられてしまうのかしら」
「そこまでは……しないんじゃないか。外国生まれの物を全て取り除くなんて不可能だ。生活の水準が二、三世代逆戻りするようなことは宮廷も喜ばないだろう」
「訓先生はまだ甘いですね。明命帝は西洋人憎しで動いています。儒教の熱烈な信奉者だから」
阮朝の国教は儒教である。役人からは儒教を学び生活で実践するよう言い含められている。訓たちの状況が特殊なのか何なのか、あまりその影響を普段感じることはない。
「君がフランスに行ってしまったら、戻ってくるのが困難になるかもしれないな。__もし鎖国令が実行されたら」
「だから、出発する前に何とかなってほしいと願っています」
明は肩をすくめた。
「僕は金銭面で支援することや、皆を励ますことしかできないけれど……臆病者だから」
「でも、それだって大切なお役目でしょう」
華が明に輝くような笑顔を向けた。
「自信をお持ちになって。フランスに行かれるのだって、あなたの頭の良さを見込まれたからでしょう。誰にでも出来ることじゃありませんわ」
明はぐっと息を呑み込み、そっぽを向いてしまった。返事がないので華が戸惑う。
「私、何か失礼だったでしょうか」
囁かれ、訓は首を振った。
「逆だと思うね」
「逆とは?」
「あいつは華の言葉に心打たれたんじゃないか。いやはや司祭のように見事だった」
「訓さんの言いそうなことを考えてみただけですわ」
華は首を傾げてそう言った。
「どんなことを言われた時、私が嬉しく感じたか。そう思い返してみたら、言うべき言葉が分かりました」
それっきり、訓も華も何も言わなかった。熟した果物や採れたての虫、魚を積み上げた市場を通り抜け、四人は黙々と歩いた。それぞれが違うことを考えていたから、焦った様子の男が干した果物を大量に買い付けている様子には気がつかなかった。




