第3章 5 (訓たち)
翌朝早いうちに、訓、華、翠瑠の三人は宿屋を出た。不思議と今度は道を尋ねる必要がない。皆が一つの方角に向かっているからだ。
また翠瑠が、昨夜見かけた役人風の男の後ろ姿を発見した。何かあると確信して後を追ったが、彼らは馬を用意していた。あっという間に砂埃を蹴立てて姿を消してしまい、三人はしばしぽかんとした。
「伝手なら他にもあると言ってましたね?」
華が訓の顔を窺う。
「ああ、そうだった。知り合いが嘉定出身でね、彼の家にも行ったことがあるんだ」
「どんなお方ですか?」
「明って奴で、かなり優秀なカテキスタだ。いずれフランスに神学を学びに行って司祭になるはずだよ」
「すごいですねえ」
相づちを打つ華の顔は夕べとは違って晴れやかだ。訓は少しほっとした。
「フランスに行くことになっているが、今出発する前に実家に戻って別れのひとときを過ごしているはず。英路とも顔見知りだから、つながっている可能性は高いだろう」
「先生とは仲良しなの?」
痛いところを突かれた。
「そうでもない」
「なあんだ」
「お家の方角はこれで合っているんですか?」
「総鎮城のお膝元だ」
「あら、かなりお金持ちなんですね」
「多分な。フランス行きの資金を実家から出してもらえるような奴だから……」
「羨ましいですか?」
「そんなことはない」
どうして皆訓と明を比べたがるのか。
「あいつもこの戦に加わる気かもしれないな……」
明の真面目な顔を思い出し、心配になった。
「ところで、また半日以上かけて逆戻りするのは辛いですね」
「わたし、足が痛くなってきちゃった」
「今日はまだ少しも歩いてないじゃないか!」
「昨日沢山歩いたんだもん」
宿屋でたっぷり休んだにも関わらず、翠瑠は甘えたように言い張った。
「舟に乗って行けたらいいのになあ」
「残念ね、翠瑠ちゃん。この人の波は櫂では漕げないわ」
「良いこと教えてやろうか?」
訓は翠瑠に目線を合わせてこう言った。
「英路もこの道を通ったんだぞ。兄様はさてどんな気持ちで歩いていたんだろうな。想像しながら歩いてみろよ」
「そっか。兄様が……」
翠瑠は打って変わってすたすたと歩き出した。慌てて大人は後を追う。追いながら二人で相談する。
「荷車か何かに乗せてもらえませんかね」
「それはいいな。大して金もかからないだろうし。だが砲丸と乗り合わせるのはごめんだな」
「アントワーヌなら喜ぶかもしれませんね」
「武器同士仲良くなったりするのかな?」
冗談混じりに華の鉄砲に目をやった。
「さあ、それはよく分かりませんけど」
華は前を行く翠瑠を捕まえて、前方右を指差した。
「あれなんかいいんじゃありません? 木材を乗せてるの」
荒く切り出した木を山のように積んだ荷車が、丁度三人のすぐ隣を通り過ぎた。
「はあ、楽ちん」
翠瑠が幸せそうに息を吐く。荷車の御者は随分親切だった。行き先が一緒だと分かると、報酬も要求せずに乗せてくれたのだ。
「英路への想いはどこへ行った?」
「きっと兄様も、こんな荷車に乗って移動したと思う」
「都合の良いこと言いやがって!」
杉の大木を切り分けた木材の上に腰を下ろすと、一段高い場所にいるので風が気持ちいい。汗が乾いていく。
「これも神様のお恵みですね」
華は嬉しそうに言いながら、鉄砲を背中から降ろし慣れた動作で構える。
訓はぎょっとした。
「何をする気だ?」
荷車の上は当然道行く人々からも丸見えなのだが、華に気がついた者はやはり驚いている。
「嫌ですねえ、撃ちませんよ。第一、弾も何もこめてないのに」
「その見分けがつかないから怖いんだよ」
どうやら感触を確かめたかっただけらしい。悪戯っぽく笑う華につい見とれた。物騒な物を向けられたせいで鼓動が速い。
「あんたら……」
御者が仰ぐように振り返り、話しかけた。
「戦に集うんだろう?」
否定しかけた華を制し、訓は答えた。
「まあ、城に行くのは確かです」
「やっぱりな。その鉄砲、相当気合い入っているものな」
「分かりますか? これ、とても威力があるんですよ」
「俺もよく触るから、鉄砲の善し悪しは見れば分かるよ。腕はどうだい?」
「私ですか? ……まあ、並といったところですわ」
猪や鹿をばんばん仕留める猟師の華が、何か言っている。
「それでも、この戦では役に立つ。文懐様は嘉定中の武器をかき集めているからな。本気で皇帝陛下と喧嘩するつもりなのさ」
ふと目を下げると、同じ方角に進む列が出来ていることに気がつく。彼らは皆、手に鎌や小刀、竹槍を握りしめていた。格好は粗末でも、きっと上げた顔は興奮に満ちてぎらついている。女がいた。年寄りも、翠瑠と同じ背格好の子どももいた。ふと、自分がまともな武器と呼べるものを手にしていないことを心許なく思った。
「勝ち目はあるんでしょうか?」
華が呟く。間髪入れずに御者が答える。
「ある。南の男は順化のお大尽様方よりずっと強いんだ。宮廷軍なんぞ蹴散らしてポイだね」
おまけに、強力な味方がついているんだぜ__御者は自慢げに語った。
「味方?」
「西洋人だけじゃない。シャムやカンボジアのお偉いさんにも、文懐様は手紙を書いたんだ。軍隊を出してくれるようにな。なあ姉ちゃん、知っているか?」
荷車を引く馬に時々鞭をくれながら、喧騒に負けぬよう御者が声を張り上げる。
「嘉隆帝が阮恵に勝てたのは、シャム人やカンボジア人がいっぱい戦ってくれたからなんだぜ。親父がその時シャム人と背中合わせて戦ってたから、知ってるんだ」
訓はこっそり肩をすくめた。嘉隆帝の勝因は父親とフランス人義勇兵の活躍だと信じていたので、認識の違いがあることに動揺していた。
「武器を買ったのは西洋人からだけど、いくら武器だけあってもそれを使う人間がいないとな。西洋人なんてのは口を出すだけで実際戦おうとはしなかったってさ」
嘘だ。父親は熱病に侵され死に至るまで長い戦に付き合った。義勇兵は慣れない異国での戦に戸惑い、かなりの人数が戦死した。訓はそれを知っている。司祭たちに教わったからだ。
腕を組み、不快さを表に出さないように務めた。
父親の功績を賞賛して欲しいという願望があることに、初めて気がついた。過剰に持ち上げられるのには辟易していると思っていたが、存在すら黙殺されていると腹がたった。
「やっぱり、熱い戦は俺たちにしかできないんだ。青い目の西洋人はお高くとまっているばかりでてんで駄目だね、この前も……」
「しっ!」
突然翠瑠が話を遮った。ほっとした訓は翠瑠の頭を褒めるつもりで撫でたが、彼女は気づいてもいなかった。
「見て、あそこ」
翠瑠の指差す先には、かなり大きな人だかりができていた。何人かがその中心で演説をぶっており、その話を聞こうと一人、また一人と集まってくる。
荷車の上からは彼らの顔がよく見える。一見して分かる西洋人で、黒く長い丈の洋服は司祭の象徴だった。流暢に大南語を操っているようである。聴き手の中にもかなりの割合で西洋人が混じっている。金色の頭が太陽光を浴びて眩しく輝く。
「何をしてるの?」
翠瑠に聞かれても、答えられない。熱弁を奮う司祭の目が一瞬だけこっちを向いた。青い目が瞬き、お互いを認識するより前に荷車はゆっくりと彼らの横を通り過ぎていく。
見たことはある顔だ。コーチシナ代牧区の司祭の中には、顔見知り程度が山のようにいる。だが、訓は決して、同じ聖職者と積極的に親しくなろうとする性格ではない。
断片的に聞こえたのは、「革命」や「団結」だった。それだけで何をけしかけようとしているか分かってしまう。少しげんなりした。
華が穏やかな声で御者に話しかける。
「あなたも、お城に着いたら軍隊に加わるんですか?」
「おうよ。そのつもりさ。この木だって、戦に役立てるために持っていくんだ。大砲を運ぶ車を作るんだとさ」
「お互い、生き延びられるといいですね」
「生き延びるに決まってる。何たって死ぬのは辛気くさくて嫌いなんでな。やっぱり生きている方が面白おかしくていいや」
まるで一度死んできたかのような言い方だ。華と翠瑠は笑った。
御者の言うとおり、シャム人の割合が存外に多い。顔立ちはほとんど同じでも、格好で違いがすぐに分かった。文懐がシャムに手紙を送ったと聞いたが、何を見返りに援助を求めたのだろう。それは勝利よりも高くつきはしないだろうか。
父親ピニョーは、嘉隆帝に援助を与える代わりにキリスト教の保護を求めた。ピニョーが嘉隆帝の代わりに交渉したフランス本国の国王は、プロコンドール島やダナン港の割譲と引き替えにヴェルサイユ条約に署名した。結局フランス政府が派兵を拒んだためにその条約は履行されなかったが、ひょっとすると今も大南の領土の一部がフランスのものになっていたかもしれないのだ。
勝利を得るために周囲から援助を取りつける、その判断は間違ってはいない。文懐は見返りに何を外国人に与えるつもりなのだろうか。




