3(アドラン司教ピニョー・ドゥ・ベーヌの事績とその評価)
アドラン名義司教であり、コーチシナ代牧であった人物__ピエール・ジョセフ・ジョルジュ・ピニョー・ド・ベーヌは、一七四一年、その名が示す通りフランスのベーヌ村で誕生した。彼の生家は裕福な革工場である。幼少期より、彼は宣教に並々ならぬ興味を抱いていた。まだ見ぬ遠い極東地域への宣教の旅は、その時点で輝かしい成功と挫折の苦悩に彩られていたからである。
イエズス会やドミニコ会などは、十八世紀までには既に極東の地に宣教の旅に出かけ、大きな成果を残していた。一五四九年にはイエズス会の創設者フランシスコ・ザビエルらが日本に訪れた。一六〇一年にはマテオ・リッチらが中国で宣教を開始した。インド、マラッカ、マカオなどでも宣教師たちは精力的に活動し、それぞれの国でキリスト教の活動組織を設置した。
ベトナムにおいても同様に宣教が行われたが、特筆すべきは宣教師アレクサンドル・ド・ロードが大越語のアルファベット表記を発明し、大越語-ポルトガル語-ラテン語の対照字典を作成したことである。先述したようにこれは後々の布教に大いに役立てられた。(更に未来の話になるが、フランスが大越を支配した際に公用文字として用いたクオック・グーの原型でもある)
さて、順調に思われた宣教活動は、十七世紀前半に翳りを見せるようになる。改宗者をぞくぞくと増やしていた日本で禁教令が出され、信徒の弾圧と共に宣教師の日本渡航が不可能となったのである。また、大越 においても、程度の差はあれど同様にキリスト教への敵視が強まり、多くの宣教師が国外追放となった。
しかし、そのような状況下においても、聖職者たちは決してめげなかった。武器の持ち込みや商業活動への参加が日本幕府の不信感を招いたイエズス会の失敗を反省し、国家の宣教保護権に頼らない活動形態が模索された。また、当時の宣教事業が抱えていた、ヨーロッパ人宣教師の人数が足りない問題も検討された。
一六六三年、フランスのパリにおいて、ルイ十四世の勅許を得てパリ外国宣教会が発足した。発足と同時にアジア地域に途切れなく宣教師を派遣した同団体は、瞬く間にインドシナ半島での宣教様式を新しく確立し、三つの構成組織 による厳正なシステムによって効率的に宣教および現地人聖職者の養成を行った。十八世紀に入ってからは、大越の聖職者はパリ外国宣教会所属の者が大多数を占めた。
宣教師に憧れ、神学校で優秀な成績を収めていたピニョーは卒業してまもなくパリ外国宣教会に入会した。一七六五年、二十三歳の時に彼は司祭に叙階され、極東地域に派遣された。家族からは遠い遠い旅に出ることを当然強く反対されたが、彼は耳を貸さずこっそり軍艦に乗り込んで出発した。
一七六六年、ピニョーはコーチシナ代牧区に到着してから、ホンダット(カンボジアに近い南部の町)の神学校に赴任した。一七七〇年、前任のコーチシナ代牧司教が死に、ピニョーがその地位を継承した。
為政者による信徒への迫害、近隣国カンボジアやシャムの干渉による混乱など、当時のピニョーらを取り囲む情勢は決して凪ではなかったが、加えて一七七一年、大越国全土を揺るがす大反乱が始まった。阮三兄弟率いる西山党の乱である。反乱はあっという間に広まり、最初に大越の南半分の支配者・阮氏を滅ぼし、続いて北半分の鄭氏を打ち負かした。
戦火を避け、信徒たちと共に避難したピニョーがある日出会ったのは、阮氏の最後の生き残り、まだ十四歳の王子福暎である。一族を惨殺された悲痛な記憶を抱え、後ろ盾もなく悔しさと恐怖に震える王子にピニョーが提案したのは、フランスに軍事援助を求めることであった。その見返りとして、フランス本国には大越との通商独占権と一部の島々の割譲を。ピニョー自身にはキリスト教の宣教の保護を願った。福暎はこの提案を受け入れた。
フランスからの軍事支援は結局得られなかった が、ピニョーは自らフランス人義勇兵団を組織し、武器弾薬を大量に購入し、福暎に提供した。これらの支援が決め手となり、福暎は大越の覇権争いに勝利した。
だから、福暎の開いた阮朝大越国は当初はキリスト教に寛大な姿勢を見せていた。ピニョー自身は一七九九年、福暎軍が勝利するより前に熱病で死んでしまったが。
コーチシナ代牧区の信徒にとって、いや、今となっては大越全域のキリスト教徒にとってもピニョーは英雄だ。例えその敬意が聖職者に向けるには相応しくないとしても。
そんな非凡な英雄の落とし子として、訓は幼い頃からずっと注目されてきた。良い意味でも悪い意味でも、彼は特別だ。
マルシャンの話は長かった。先ほどの落胆ぶりはどこへやら、息もろくに継がず、目を輝かせてアドラン司教への憧れを語った。その間、米も魚もピエトロがすっかり平らげてしまっていた。恨めしくて思わず彼の後頭部を小突いたが、飯は帰ってはこない。
フランス語は不自由なくこなせるつもりだが、早口になると格段に聞き取れなくなる。耳は固有名詞だけを掬い上げ、線はいつしか点に変わる。辛うじて相槌を打ってはいたが、きっとマルシャンの耳には届いていない。
もっと可哀想なのはピエトロだ。ずっと、何の話をしているのか分かっていない。フランス語やラテン語は学校で教えていたが、この子はあまり熱心に勉強する性質ではなかった。挨拶や祈りの言葉が分かる程度だ。
今も、退屈そうな垂れた目で、緩慢に訓とマルシャンの顔を見比べている。訓は教え子にこっそりにじり寄った。
「そろそろ帰ったらどうだ。明日も朝から畑作業だろう?」
「いえ、」
ピエトロはどこか誇らしげに首を振った。
「明日は歌の練習でしょう。今日のうちに草取りも魚取りも済ませておいたんです」
「立派な心がけだ。聖歌隊の指揮者もさぞ喜ぶだろうよ」
「指揮者って、訓先生じゃないですか」
「それならお前も、俺たちに付き合って存分に夜更かしできるわけだな?」
「いや、眠たくなったら寝ますよ。僕には関係なさそうだし……」
「関係ないかどうかは内容次第だろ。全く、普段勉強を怠るからこういう時に困るんだ」
「司祭さまみたいなこと言わないでくださいよ」
ピエトロは生意気な身振りで肩をすくめる。宣教師の仕草を真似ているのだ。
「通訳してやろうか?」
耳元で囁くと、少年はぱっと顔を輝かせた。
「お駄賃いります?」
「そうだな、米俵二つで手を打ってやる」
「ひどいなあ、生徒から大事な米を強奪するなんて」
「お前から言い出したんだろうが!」
「まさかこんなにぼったくるとは思ってなかったんですよ。司祭ともあろう人が」
「俺は司祭じゃない。カテキスタだ」
「同じでしょ」
「それ、本物の司祭の前で言えるか?」
「とんでもございません」
ピエトロは開けっぴろげな笑い声を上げ、マルシャンに気づいて慌てて口を押さえた。彼はじろりとこちらを見たが、話を中断することはなかった。
「で、ホンモノの司祭様はなんの話を?」
「大南の繁栄と信仰の推進についてな」
「嘘ばっかり。ピニョーって何回も聞こえましたよ。先生のお父さんの話でしょう」
「分かってるなら何で聞いた?」
ピエトロの目には邪気がない。だから訓は彼に気を許すことができる。
「お前はどう思う?」
「どう、とは?」
「ピニョー司教について」
ピエトロは少し考えるそぶりを見せたかと思うと、すぐに顔を上げて笑った。
「先生のお父さんだなぁって思いますね」
言われるだろうと思ってはいたが。
「それ以外は?」
「なんかすごいらしいですよね」
「他には?」
「きっと先生に似て口うるさいんだろうな、とか」
「俺の話はもうやめろ。聖職者としてはどんな人間だと思う?」
「僕にそんなこと聞かれても……」
言われて我に返った。やり過ぎだ。これでは、ピニョーのことが気になってたまらないようではないか。マルシャンを笑えない。
どうも、自分は父親の話になると冷静ではいられない。訓は苦さと共にそう自覚した。目の前ではアンリがまだ“自分なりに辿ってきたピニョー猊下の足跡”について語っていた。何が足跡だ、馬鹿馬鹿しい、ムスリムのメッカ巡礼でもあるまいし。
結局眠りにつくことができたのは空が白み始めた頃だった。まだまだ話足りない様子のアンリをなんとか宥めて三人で祈り、灯を消した。自分の寝具はマルシャンとピエトロの二人に分けた。空っぽの腹の虫を抑えるために檳榔を噛んで横になる。
目が冴えていた。
早いとこ眠らないと明日に響く。それはよく分かっているのだが。中身の分からない薬を嗅がされて意味もなく興奮している犬公のような気分だ。(嘘、そんな場面を目撃したことは一度もない)
こんな時は、聖歌隊のことを考えるに限る。畑仕事や漁で忙しい合間を縫って練習に来る子供たちのためにも、短時間で効果が出る発声方法を編み出すのが訓の日課だった。
訓が指導する聖歌隊は、現在は男子四人、女子四人の計八人で構成されている。彼らは皆、当然ながら近隣の村で生活するキリスト教徒であるが、入信するきっかけは実に様々であった。孤児も、信徒の子どもも、隣国から逃れてきた子もいる。だが訓にとっては皆一様に大事な神の子だ。
カテキスタである訓は、何人かの同僚と共にクレティアンテ内の学校の運営を任されていた。人数が限られたフランス人司祭はいつも忙しく、何日かに一度問題が起きていないか見に来る程度である。共同体や学校、診療所の数が司祭に対してやや多すぎるため仕方のないことなのだ。
学校では、神学や字喃の読み書き、フランス語やラテン語まで教えていた。希望する者には、西洋科学の基礎を(フランス人の講師を招いて)指導した。生徒の数は四十人前後といったところか。子どもたちだけでなく、歳をとってから神学を学び始める大人も多い。
聖歌を歌うことは、正式には講義の日程に組み込まれている訳ではない。このクレティアンテでの聖歌隊は訓自身が生徒を集めて結成したものだ。彼は東トンキン代牧区の教会の視察に同行した際、初めて本格的な聖歌隊を見た。
東トンキン代牧区の教会は、訓たちの故郷よりもずっと立派だった。色鮮やかなステンドグラスを通した日光が、静まり返った聖堂の中に荘厳な彩りを落としていた。固唾を呑んで見守るコーチシナから来た司祭たちの前に、裾の長い純白の衣をまとった少年たちが滑るように現れた。
その歌声を聴いた時、斧で頭を殴られたような衝撃を受けた。それまで知っていた音楽とはまるで違う。広い聖堂内を自在に昇り降りする一つの声の塊。二十人余りの聖歌隊は、一様にあどけない顔に笑みを浮かべていた。その中の一人と目が合った時、こう語りかけられたような錯覚を覚えた。
「僕たちの歌は、素晴らしいでしょう?」
激しい嫉妬と哀しみ__自分には、こうした音楽を誰かと為すことはもうできないのだというやるせない諦めを抱き、しかし耳の奥には本物の福音さながらに素晴らしい歌声をとっておきながら訓はコーチシナに帰還した。戻ってきて真っ先にしたことは、音楽に関する書物探しであった。
西洋では、少年を集めて歌を歌わせるのは珍しくもないらしい。まだ声変わりしない子どもに合唱させると、天使のような音楽が出来るのだとか。訓はフランス語で書かれたその西洋風俗誌を脇に抱え、クレティアンテ中の子どもを集めて聖歌隊に誘った。男子だけでは人数が足りないため、女の子にも声をかけた。声変わりした少年も、まだ高音の美しい子どもも、聞いてくれる者には聖歌の素晴らしさを語り、何とか数人の希望者を獲得した。
それから何年も経ち、代替わりを繰り返して、ピエトロを含む現在の聖歌隊となった。どの子も楽しそうに活動に取り組んでいるのが訓にとってのささやかな幸せだった。