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第3章 4 (嘉定総鎮城にて)

 訓が想像したより遙かに、黎文懐は覚悟を固めていた。


 正確に言えば、固めている最中である。


 嘉定総鎮城は、今では要塞と化している。常駐軍に加えて志願兵千人、寝泊まりは付近の屋敷を使わせているが訓練のために城に集める必要がある。その上、購入した食糧に武器は城に一旦運び込ませているため、ぎちぎちに人と物が詰まっている。


 反旗を翻すのはまだ先だ。今はともかく、力を蓄えなければ。一つの王朝を覆すのは並大抵の覚悟と努力では成し遂げられない。


 懐に入れた聖書を開き、文懐は折り目のついた頁をめくった。何度も読み返したせいで紙がよれていた。ラテン語から大南語に翻訳した古ぼけた聖書は、義父からの贈り物だった。


「神は自ら助ける者を助く……」

 呟くと、側に立っている通訳が反応した。彼もキリスト教徒だ。フランス語に堪能ということで、志願してきたその日に通訳に任じた。

「お前も知っているだろう。この聖句」

「はい、勿論です」

 通訳は嬉しそうにうなずいた。

「だけど、俺には分からないことがあるんだな」

「何でありましょうか?」

「神を信じる者が、自助努力を続けたとしよう。どの時点で、神は手を差し伸べてくれるのかな。順化まで迫った時か? 追い詰められてこの城に籠城している時か?」

 城のどこかしこで、棒を振り回す青年の雄叫びが聞こえる。付け焼き刃で特訓をしているのだ。


 当然、彼らのほとんどは鉄砲も大砲も触ったことはない。その訓練をつけてくれる者が、今日到着するはずだった。


「なあ、お前はどう思う」

「僕は……そうですね。神は既に助けてくれているのだと思います」

「何、もう既に?」

「コーチシナに多くの西洋人が訪れているのは、神のお心のためであるのでしょう。その結果として、いち早く最新の武器を購入できた訳ですから……」

「それが、神の手助けか」

 文懐は鼻から息を吐いた。

「まあいい。そういうことなら、信じる甲斐はあるのだろう。例の宣教師はまだ来ないのか?」

「そのようです」

「じゃあ、今の内に休んでおくんだな。明日はお前も忙しくなるぞ。連中の言葉を一言も間違えるな。言質をとられるとまずい。明命帝を倒した後、連中に食い物にされるのはごめんだ」

「はい」

 文懐は自室を見渡した。貴重な陶磁器や衣類は片付けてあった。いつ戦を始めてもいいように、大刀と鉄砲は体の側に置いている。

「宣教師たちがいつくるか分からん。お前もここで寝ろ。従者に寝具を用意させる」

「ありがとうございます」

「俺は城内を見回ってくる」

 頭を下げる通訳を軽くあしらい、文懐は自室を出る。廊下のあちこちに志願兵がいる。文懐を見ると彼らは動きを止めて礼をした。


 宮廷から送られてきた命令状を破り捨てたその日、勇んで集まった男女。その三分の二は文懐の知らない顔だった。


 言葉を交わしたことも、同じ空間にい

たこともない、大勢の兵士だ。しかし、同じことに憤り、同じ覚悟を決めた同志たちでもある。

 明命帝の酷い仕打ちを一瞬たりとも忘れたことはない。亡き義父の思い出すら踏みにじられたのだ。

「訓練もいいが、きちんと休め。疲れは戦いの足を引っ張る」

「はい!」

 棒を下ろし、座り込む兵士の中には、まだあどけない顔をした少年がいた。

「お前、年齢は?」

「十四です」

「親はいるのか?」

「二人とも死にました」

「そうか」


 文懐の実の両親はとうの昔に戦で死んだ。父親は北圻の部族長であったので、当時まだ少年ともいえる年の文懐が後を継いで阮朝の討伐軍と戦った。阮朝が開かれてまだ間もない頃だ。その時の討伐軍の大将が、黎文悦だった。


 黎文悦は西山の乱最大の功労者だけあって、恐ろしい敵だった。西洋の武器を用いた意表を突く戦いを展開し、勢いだけで突き進んでいた文懐たちをあっという間に崩した。そのくせ、不要な殺しを嫌う高潔さを備えていた。捕虜となった文懐が死を覚悟して文悦の前で好き勝手に怨みつらみをぶちまけると、何が琴線に触れたのか縄を解いてお前を息子にすると宣言したのだ。


 儂を師と思えと__文悦は最初に言った。忠孝は、亡き両親へ捧げていればよい。その代わり、儂が与える愛を受け取れ。


 何を言っているのだろうと当時は思った。文悦がキリスト教という、遠い西洋の教えを信仰しており、愛を何より重んじているのだと知ったのは、嘉定にやって来て間もなくのことだった。


 愛とは何か。そんな問答を義父とよくした。義父も自分も根は武人なのだが、答えのなかなか出ない話を夜通しするのは楽しかった。


 愛とは慈しみだ、他者に庇護や援助をすることだと父は言う。そんな信条に基づいた父の政治は民に優しかった。交易の自由を認め、不満や陳情があればよく耳を傾け、納めさせる税は決して重くはなかった。


 愛とは誰かのために感情を揺さぶられることだと文懐は思う。愛する父が死後に侮辱されたから、文懐は激怒した。決して明命帝を許さぬと胸に刻み込んだ。父が何を間違ったというのか。フエから出たことも、戦の経験もない温室育ちの我が儘皇帝が、よくも南圻の心を穢してくれた。


 今ここに集まった人間や兵站の数が、愛の証だ。明命帝には決して理解できないだろう。


 少年兵が、不意にぶるりと身震いした。熱帯夜である。

「怖いのか」

 問いかけると、彼は首を振る。

「いいえ、決して」

「ならいい。負ける未来を想像するな。戦い抜いて、自分が守りきった後の嘉定だけを思え」

「はい!」

 人生が変わってしまったな。声には出せないがその時思った。この子も、自分も。いや、嘉定に住む全ての人間の運命が、ひょっとするとあの書面を破った瞬間に大きく動いた。ならば、最後まで信じるもののために戦うまでだ。


 少年の背中を叩き、文懐は前に進む。多くの兵士に休めと声をかけようが、彼自身には安息の時間はない。


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