第3章 2(フランス人と革命)
嘉定に引っ越してから、英路は真っ先に司祭たちの元に挨拶に行った。故郷の司祭からの口添えもあり、温かく迎え入れられたと喜びの言葉が手紙に書かれていた。コーチシナ代牧は人格者と評判の中年のフランス人宣教師だが、マルシャンのようにやや阮朝政府を批判的に捉え、「革命」の発生を望んでいる節があった。
フランス生まれの司祭__それも一定の年代より下の司祭たちが、何故口を揃えて「革命」を賛美し現地人をけしかけたがるのか、訓にはよく分からない。大南にも少ししかいない、ポルトガルやスペイン生まれの司祭からはそうした概念を聞いたことがないので、フランス人特有の思想なのだろうかと推察するばかりである。
ともあれ、嘉定でのキリスト教生活に英路は満足しているようだった。嘉定には、黎文悦公の支援を受けて建てられた壮麗な教会もあり、信徒の心の拠り所らしい。鮮やかな色の絵を描いた硝子窓が目印だ。訓にも一度は見てみたいという欲がある。順化での布教活動が公には禁じられ、こそこそと教会も建てずに信仰を守っているという状況と比べると、のびのびと信仰を広げられる南圻は非常に恵まれている。
だがそれも、嘉定総鎮が南圻を治めている間のことだ。
南圻が皇帝の直轄領となれば、そうした状況は大きく変わるのだろう。どれほどの迫害が加えられるのか、想像するだに恐ろしい。禁教令は今年の旧正月節から既に出ているのだ。
英路は自分の信じる神のために戦うのだ__聖職者の端くれとしては、彼の忠実な姿勢を賞賛するべきなのだろう。自分の生活の基盤を、身の安全を守るために戦うことの何がいけない。訓だって自分や聖歌隊が脅かされた時には迷わず武器を取るはずだ。
(翠瑠のために、戦いから遠く離れた場所にいてほしいと願うことは間違っているのだろうか)
頭の中で悶々と悩んでいた時、大砲らしき鉄の塊を積んだ馬車とすれ違った。




