第2章 10(川下り)
「わずかばかりじゃが、足しにして下され」
そう言って渡されたのは、銀貨の詰まった袋だった。
「こんなに貸してくれて大丈夫ですか?」
危ぶんだのは、この小さな社の懐具合だ。家々を回って集めた路銀だと訓は知っていた。
「わしらはこれで安全を買うのじゃ。平穏な生活を守るためなら、これくらい安い」
「圧をかけるような言い方ですね」
「かけているのは、期待じゃ」
華が訓を呼んだ。舟の準備が出来たと言う。その横には翠瑠がいる。村の女たちに作ってもらった干物やお握りを風呂敷に詰めて背負っていた。
「くれぐれも頼みますぞ……」
長は訓の腕に触れ、低い声で言った。受け取った路銀の袋がずしりと重くなった気がした。
小舟は確かに速かった。訓と翠瑠がたらたらと歩き、途中で何度も休憩を挟むことになるよりもよっぽど。華が櫂を持っていたが、ほとんど使うような状況は起きなかった。その上、あまり乱暴に身動きさえしなければ、舟の上でくつろぐことも、食糧をつまむこともできるのだった。
華は舟に乗ってからあまり口を開かない。翠瑠はしばらくうきうきしていたが、今は黙っている。訓が祈ると、華も参加した。翠瑠も真似をするが、祈ることの意味は分かっていない。静けさの中に水の音だけが混じり、眠気を誘う。
華に舵取りを任せて自分だけ寝る訳にもいかないので、欠伸をかみ殺しながら落ちてくる瞼を必死に持ち上げた。両岸の景色はどこまで行っても変わり映えしない。コーチシナ特有のマングローブ林が広がっている。
「あ……」
不意に、翠瑠が呟き訓の袖を引いた。
「先生、見て」
翠瑠が見ているのは、舟縁と水面の接する境界である。あまり身を乗り出すと危険なので、彼女の腕をさりげなくつかみながら訓も覗き込んだ。
「虹か」
「うん」
水が細かく跳ねると共に小さな虹が生まれ、儚い動物のように浮かんでいる。華も気づいて感嘆の息を漏らした。
「きれいですね」
「全くだ……」
その時、訓の脳裏に何か触れるものがあった。強烈な既視感と、曖昧な記憶の中の一枚絵。
やっぱり川だ。川のほとりで、虹を見た。その時初めて会った大人が一緒だった。
幼い訓は翠瑠と同じように虹に夢中になっていた。その横にその誰かはいて、……続きがある。思い出してきた。
過去の自分は「きれいだね」と言った。返事はなかったか、取るに足らない言葉だったので覚えていないか。だがその時、渡された物があった。
手のひらに収まるほどの大きさの物だ。大事に隠し持っておくように言われて、そう、何度も何度も念押しされたから、自分はそれを箱の奥底にしまい込んでいたんだ。きっと今でも残っているはずだ。貧乏ではあるが物持ちのいい性分で、生もの以外で捨てた記憶は全くない。
家に帰れたら、箱の中を探してみよう。漠然とだが心に決めた。まだそれが何だったのかを思い出せていないのが辛いが、流石に現物を見ればもっと記憶が蘇ってくるだろう。
ひょっとしたらそれが父親で、貰ったのが形見ではないかという淡い希望があるから、訓は気のはやりと興奮を抑えきれない。
「大丈夫ですか?」
華が訓の顔を見つめていた。
「え? __ああ、大丈夫、というか」
「ごめんなさい、思い詰めたような顔をしていらっしゃるから、気になって」
「そんな顔だったか?」
水面を覗いた。ぼやけた自分の顔が後ろに滑っていく。
「ねえ、迷惑だったでしょう?」
華が突然言い出した。
「な、何が?」
「私たちの都合を押しつけてしまって」
「ああ、あの頼み事のことか」
何故だか今はそんなに気にかかってはいなかった。もう随分前に頼まれたことのように思っていた。
「どのみち、自分の社に帰っても同じことを聞かれるんだ。嘉定で見聞きしたことをありのままに伝えることぐらい、迷惑でも何でもないですよ」
「……そう。良かったです」
「それより、舟を出してくれた方がよっぽど助かりました。貴女がついてきてくれたことも」
「えっ」
華がはっと顔を上げる。
「私……?」
「ええ。貴女ほど心強い味方はいない」
女に向かって失礼な評価かと一瞬思う。だが、華の顔にじんわりと笑みが広がった。
「嬉しいです。あなたたちのためなら、獣でも賊でもこのアントワーヌで撃ち倒してみせますね」
彼女の物騒な一面は、むしろ今では可愛らしい。
半日経った頃、急に景色が開けた。森は途切れ、川の流れが急に遅くなった。
「そろそろ着きます」
華が訓と翠瑠に囁いた。
岸辺に何人もの若者がいる。魚を捕っていたが、華の舟が近づくと、川から上がって場所を空けた。馬車の行き来する様子や、人々の喧しい話し声が今までとは打って変わって飛び込んできた。
川から上がると、そこはもう嘉定だ。




