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第2章 9 (訓と翠瑠たち)

 二日も寝て過ごすと、訓の体はかなり回復したようだ。腹で暴れ回るような痛みは多少鈍くなった。内蔵が傷ついていないのが幸いだった。

「もう出発しよう」

 朝飯の後で、訓は翠瑠に言った。当然華も聞いているのである。

 翠瑠は嬉しそうにうなずいた。早く英路に会いたくて焦れていだだろう。だが、翠瑠は同時に華の方を気遣うように見た。華は素知らぬ顔で銃身を磨いていたが、動きに精彩を欠いている気がしないでもない。

 彼女には本当に世話になった。命を救われたばかりか、看病までしてもらったのだから。

「華さんには何とお礼を言ったらいいか。必ず恩を返しに行くよ」

「別に……人として当たり前のことですから」

「華ちゃんとお別れしたくない」

 ふと見ると、翠瑠はべそをかきかけていた。

「泣かないで。私も寂しいけど……帰り道に寄ってちょうだいね」

「うん。絶対だよ」

「お兄さんにきっと会えるわ。私も祈っているもの」

 華に翠瑠が抱きついた。まるで本当の親子のようだ。

「森の中の道を通っていくんでしょうね?」

「それ以外の行き方を知らないからな」

「長に聞いてきましょうか。近道がないかどうか」

 華は家を後にして、それから間もなく老人を連れて戻ってきた。訓も一度挨拶をしたことがある。徳が高いと評判の長だった。

「社を出られるのじゃな」

 訓は床に額をつけた。

「泊めていただき、ありがとうございました」

「何の何の。好きなだけ居てくれても良かったのじゃが。嘉定に行くおつもりと聞いたが……?」

「そうです。反乱軍に加わった友人を連れ戻しに行きます」

「十分に気をつけられるのじゃな」

 長は眉をひそめていた。

「例の、あなた方が襲われたという山犬な、見かけたという民が何人かいるのじゃよ。一人の男が五頭も従えて、森の中を歩いていたと。獣が怖いんで隠れていたが、その内妙なことに気がついた」

「妙なこと?」

 華は長の後ろで、美しい顔をこわばらせている。

「その男の周りに、やたらと鳥獣が集まってくると言うのじゃ」

「はあ」

 獣に狙われやすい体質があるのだろうか。

「見ている限り、鳩、鷹、猿に狐……実に様々な獣がそいつに近づいてきて、餌をねだっておった。男は袋から餌を取り出し、与える反面、獣の身から何か荷物のような物を外していた。また、逆に薄い包みをくくりつけて放つこともあったという」

「不気味な話だな……」

「訓さんは、男の素性が何だと思いますか?」

 華が尋ねた。

 動物好きな聖人と答えるには聴き手が真剣すぎる。実際今聞いた話が、奇跡や美談といった呑気な種類のものとは思えなかった。

「獣を飼い慣らして売り捌く商人か、はたまた何らかの目的に動物を利用する間諜か……」

「そう。そこで、あなた方が襲われた事実が問題になるのじゃ」

 今の今まで、山犬の襲撃自体に何か意味があるとは考えていなかった。

「その男が凶暴な獣を従えているのは、都合の悪い人間を始末するためではなかろうか? もしかすると、西山阮氏のような反徒が近隣で暗躍しているのではないか? そう推察すると、のんびり暮らしていられないのじゃよ」

「物騒な話ですね」

 西山阮氏の乱は、まだ人々の記憶に新しい。この長が物心ついた頃には、まだ阮三兄弟が大南全域を占拠していたのだ。自分たちの生活を脅かす輩を警戒するのは当然の心境だろう。

「だが、その男がどこに行ったかはもう分からぬ」

「強いて言えば、嘉定に向かったのではないかと思うのです」

 華が捕捉する。

「それは何故?」

「あそこは南の要衝だから。それに今は、嘉定総鎮が反乱を起こす噂が広まっています。危険な賊が吸い寄せられると思うのです」

「反乱に加わるつもりの悪党ではないかと思ってるんだな」

「訓さんはそう思いませんか?」

 華や長の見立ては筋が通っている。と思う。

「だけど、俺は軍に関わるつもりはないよ。ちょっと様子を見て、一人の兵士だけ引っ張り出せればそれでいいんだ。文懐の乱が成功しようがしまいが関係ない」

 その時、マルシャンの演説を思い出した。彼は、文懐の反乱を支援してキリスト教徒の安全を守るべきだと熱弁していた。白けているのは俺だけで、周りの同僚や信徒たちは感じ入っていたようだった。

 クレティアンテに戻れば、また面倒な熱気の渦に取り込まれるのだろうか。今からげんなりした。いっそ、英路と翠瑠を連れてこの社でのんびり暮らす方が幸せなのではなかろうか。

「そう言えば、肝心なことを聞いていませんでしたね。もし反乱が実際に起きたら、この社はどちらの側に与するつもりですか?」

 反乱が成功するかは今の時点では見通しがつかない。阮朝樹立だって西山阮朝だって、成功した部類に入る反乱といえる。こう言うと望みは厚いように思えるが、勿論輝かしい栄光の影には無数の叩き潰された蜂起があるのである。

 順化宮廷の圧倒的勝利に終わる可能性だって高い。だが、地理上の問題も無視できない。順化は遠く、嘉定は近い。順化宮廷への忠誠を示したせいで、北上する反乱軍に社ごと滅ぼされたら悲劇だ。

「そこじゃ」

 長が身を乗り出した。

「どちらを支持するか、判断材料がまだ足りぬ。そこで、あなた方にお願いしたいことがある」

 訓は顔をしかめた。

「嘉定に行ったついでに賊軍の様子を見極め、報告しに帰ってこいとか言うんじゃないでしょうね」

「おお、話が早い。正にそうなのじゃ」

 正にそうなのじゃ、じゃない!

「……まあ、断る訳にはいかないけれど。社にも華さんにも恩義があるから」

「路銀は勿論工面させていただく。あと舟も」

「舟?」

 困惑顔で大人の難しい話を聞いていた翠瑠が、ここにだけ反応した。

「お舟に乗るの?」

 華が微笑みかけた。

「その方が、早く嘉定に着けるのよ。途中まで川を舟で下って、終着点が嘉定にあるから。どう、楽しそうじゃないかしら?」

「生憎だけど、俺は舟を操ったことがないんだ。乗ってすぐに転覆してしまったのでは尚更時間がかかる」

「私が運転しますわ」

 華はそう言った。

「舟の操り方なら心得ています。それに、私の鉄砲が必要になるんじゃありませんか?」

 長がうなずいている。丸め込まれてしまったのは腹立たしいが、提案をのまざるをえない。

「あまり、貴女を危険な目に合わせたくないんだが……」

「平気です」

 にっこり笑顔で言い切られてはそれ以上言葉を重ねることもできなかった。


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