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第2章 8 (順化(フエ)宮廷にて)


時は少し遡る。


 明命帝がその報告を聞いたのは、訓とマルシャンが出会った頃であった。訓が父親やキリスト教のことで苛立ちを覚えているのと奇しくも同じ瞬間に、皇帝も同じことで頭を悩ませていた。


 明命帝の目の前にいるのは、武性。父嘉隆帝時代からの重臣である。明命帝が即位した十年前から彼を支えてきた聡明な臣下であったが、最近は鼻につく言動が目立っている。

「恐れ入りながら申し上げます。布教の認可は許してもよいのではないかと私は考えております」

「卿の考えは問題にしていない」

 苛々とこめかみを指で打ちながら、明命帝は答える。

「その話は何年も前に決着したはずだ。異国の宗教の認可はできない。嘉隆帝の頃から宮廷の共通認識であるはずだ」

 明命帝は窓の外に目をやった。もうすぐ夜が明ける。上奏文の精読が終わらないからと宮廷をまだ開いていたのが仇となって、ただでさえ眠気が溜まっている時間にこんな不愉快な話を聞かされる。

「そもそも……」

 平伏する大臣の冠の天辺を見下ろした。こんな服従の格好を示しておいて、腹の底で何を考えているか、分かったもんじゃない。父帝時代からの旧臣全体に言えることだ。

「認可してもしなくても、地虫のようにこそこそとのさばるのがキリスト教徒ではないか? 今更認可したとて何の違いがある?」

「陛下。そのお言葉はいただけませぬな。民は国の宝です。地虫呼ばわりは……」

「分かった分かった。取り消す。だが、西洋人の鼠どもは宝じゃないぞ。あれは放って置けばやがて我が国を滅ぼす。で?」

「キリスト教徒の活動を認めれば、彼らの心が変わります。許された民は皇帝陛下に一層の忠誠を誓うようになりましょう。しかし、逆に……」

「皆まで言わなくてもいい。その手の話は繰り返し過ぎてもううんざりだ。あの黎文悦とな」

 大臣が顔を上げた。気に入らない光がその目に宿った気がして、明命帝は目を細めた。相手も気がついたのか、すぐに顔を伏せたが、今覚えた不愉快な感覚は忘れられなかった。

「黎文悦は卿とも仲が良かったな」

「昔の話でございます」

 現皇帝に嫌われている死人に忠義を貫く愚か者ではなかったか。巧妙に隠したつもりだと、つついてみたくなる。

「朕は先だって、黎文悦の墓を鞭打たせた。卿はこれについてどう思った?」

「私の考えは問題ではございません」

「今、朕が聞きたいと言っているのだ」

「黎公が本当に陛下に対して無礼を企てたのならば、死後の遡及罰は妥当であると存じております」

 本当に、か。

「では、その息子については?」

 文悦の息子は、養子である。黎文悦がかつて平定した北部の部族の族長で、血の気が盛んな男であると聞いている。そして、明命帝がとった措置に怒り狂っているとの報告も。

「黎文懐に会ったことはございません。従って、何も思うところはございません」

「ふうん……」

 話をしながら目を通していた上奏文を畳み、側に控えていた近習に渡した。今日はもう限界だ。明日のために休みをとった方がいい。

「その割には、キリスト教徒の肩を持つのだな」

「情勢を鑑み、客観的になすべきことを分析し申し上げたのみでございます」

「まあいいさ。今日はもう下がれ。そなたも寝る時間が必要だろう?」

「有難きご配慮で……」

 白々しいおべっかを聞いていると、また意地悪を言いたい気分になった。

「ああ、もう一つ。活動を認めるかどうかはともかく、朕はキリスト教徒に注目している。もし奴らが、反逆の兆しを見せたら……そしてその後ろ盾に、我が宮廷の忠臣がいたら……」

 大臣は白い眉毛をぴくりと動かした。

「それが分かった時には、その忠臣は覚悟をしておいた方がいいだろうな」

 これで話は終わりだ。深々と頭を下げる大臣と召使いの前を堂々と通り、執務の間を出た。ついてきたのは近習一人だった。

「明日、同じ文を出しておけよ。朝から読むからな」

「はい」

 まだ十代の近習は、おどおどとお辞儀した。

「前みたいに、宮廷料理の食材表を間違えて出すんじゃないぞ」

「はい……」

 少しだけ笑いがこぼれた。こわばった顎が少し緩んだ気がする。全く、そそっかしい奴だが空気を和ませてくれる。大した才能だよ。

「今日は何も忘れなかったか?」

「そ、それが……一度だけ」

「何だ?」

「大臣閣下のお茶を出し忘れまして」

 今度こそ明命帝は大声で笑った。

「そりゃあいい。あの取り澄ました爺さんには何も出さなくていい。文句を言われたら陛下に呼ばれたと言って逃げろ」

「ありがたきお言葉……」

 そのぼやけた発言も可笑しかった。

「寝る前に茶が飲みたいな。持ってきてくれるか?」

「はい」

「茶碗に入れるのを忘れるなよ」

「はい……あっ!」

「どうしたどうした」

「太利様がお見えです」

「今日二つ目の物忘れだな」

 明命帝はにやりと笑った。思わぬ客人だ。腹の底からぞくぞくと嬉しさがわき上がる。

「寝所か?」

「そうです」

「茶は二つだ。太利のために菓子も用意しろ」

 寝所で待っていたのは、まるで庶民の出で立ちをした痩せた男だった。扉の前で直立していたが、明命帝を見ると早足で近づいてきた。

「陛下。お久しぶりです」

「待たせたな。来ていると知っていればもっと早く戻ったのに。あいつが忘れるから」

「あの近習ですか。まだ首になってないんですね」

「ここを追い出されたらあいつはどこでも働けないだろうよ」

 明命帝が口を開けて笑うと、男も満足そうに口元をゆがめた。明命帝よりも少しばかり背の高い、小さな瞳にこけた頬のこの男は、明命帝の幼馴染みだった。

「まあ座れよ。随分疲れてるんじゃないか?」

「まあ、まあと言ったところですね」

「今日はどこから帰ってきた?」

「嘉定から飛ばしてきました」

 明命帝の笑いが消えた。

「黎文懐のところからか」

「はい」

 太利は情報収集に長けていて、明命帝が何の疑いも抱かずに駆使できる数少ない手下である。

「どうだった?」

「あの男は反乱を起こす腹を決めたようですね。周囲にいる異国人やキリスト教徒が唆したのです。後ろ盾の算段もつけているところです」

「どこと、どこだ」

「フランス人、シャム人、カンボジア人……南圻に関わる外国のほとんどと交渉にあたっています。華僑も絡むつもりのようですね」

 先程の大臣との会話を思い出した。後悔などしない。してももう意味はない。今から黎文懐に使者を送って宥めることはできない。皇帝の威信が崩れてしまう。

 文懐が歯向かうと言うのなら、叩き潰すまでだ。

「鎮圧軍を出すべきだろうな。本格化する前に」

「それよりも、もっと迅速で損失の少ない手段がありますよ。内部から反乱軍を切り崩すのです」

「本当に、そんなことができるのか?」

「できない理由がありましょうか」

 太利が首を傾げる。

 茶が運ばれてきた。ついている菓子に太利は遠慮なく手を伸ばす。ふっくらした饅頭にかぶりついて嬉しそうに笑う太利を見て、少しほっとした。あの近習は、粗相は多いが食べ物を選ぶ眼は宮廷一だ。

「朕は__」

 言いかけると、太利が饅頭を吐き出しそうになった。

「何だよ」

「いや……陛下がそう自称するのを初めて聞いたから……」

「ほっとけ。さっきまで偉そうな大臣としゃべってたんだよ。……私はお前が心配なんだ」

「心配することなんてどこにあります? 反逆の芽を摘み取るなんて、前からずっとやってきたことです。今回も変わりゃしませんよ」

「それは分かっている。分かっているんだが……」

「報告を待っていてください。文懐の首だって送ってみせますよ」

 胸を叩く太利が昔と変わらなかったので、明命帝もちゃんと笑った。

「ところで、文懐の元では一体何をしようと思っているんだ? 内緒で聞かせてくれよ」

「仕方ないですね。まだ頭で練っている段階なんですが。じゃあ、陛下の意見も聞かせてくださいよ」

「何、皇帝に意見を求めようというのか? 仕方ないな」

 昔に__宮廷の庭を抜けだして、太利と共に都の子どもたちと戦ごっこに明け暮れた時に戻ったようだった。昔から、太利は自軍のために暗躍するのが上手かった。西山阮氏の乱ごっこでも徴姉妹ごっこでも、太利を入れた側がよく勝利するので二人は取り合いになった。太利は子どもの頃、明命帝の側を離れようとはしなかったので、スカウトの交渉相手になるのはいつも明命帝だ。

「あの時被っていた紙の冠、もうどこにいったか分からなくなってしまったな」

 太利がちらりと目を上げる。

「そうなんですか? 私はまだ大事に持っていますよ」

「多分、召使いが捨ててしまったのだろう」

「今の陛下には、ご立派な本物の冠がありますからね」

 明命帝は、頭に手をやった。金細工を贅沢にあしらった、大南最高の職人の手による皇帝の冠。

「被ってから十年も経つというのに、未だに私には合わない気がする」

「そんなことはありませんよ」

 太利が何でもない顔で返す。

「よく似合っています、即位の儀で見た時から」


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― 新着の感想 ―
ピリピリと緊迫したやりとりから、明命帝の頭の回転の速さと、同時に皇帝ならではの威圧感を感じていたのですが、「宮廷料理の食材表」にさしかかったところで、思わず笑ってしまいました。 そこから続く近習のとぼ…
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