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第2章 7(一輪の花)

 翠瑠と二人になって、まず話さなければいけないことがある。

「すまないな、嘉定に着くまでもう少しかかりそうだ」

 翠瑠は訓の側で膝を抱え、健気に首を振った。

「ううん、大丈夫。痛い?」

 翠瑠がこわごわと見ているのは、むき出しになった腕の傷だった。塗り薬をつけてくれたのか、もう傷はふさがっている。

「もう痛くないよ。心配かけたな」

「わたし、何があったのか見てないの。大きな犬に囲まれていたのよって、華ちゃんが教えてくれたけど。蜘蛛のことしか覚えてない」

 思い出して、笑いが出た。

「あの蜘蛛は大したものだったな」

「笑い事じゃないよ。わたし、もう森の中は歩きたくない」

 翠瑠にすっかり恐怖を植えつけてしまったようだ。元を辿れば、蜘蛛に気づかせたのは訓だ。後ろめたかったが黙っていた。

「先生、あと二、三日は寝てないといけないって」

「長すぎるな。明日一日で回復できればいいのだが」

「駄目。無理しないで」

 翠瑠は怒ったような顔で訓の頭を軽く打った。

 華が外出している間も、いろいろな人が顔を出しては、野菜や米を置いていった。あの医者のように、華から肉を貰っているそうだ。 

 華は女やもめで、十五で結婚したその三年後に夫を亡くした。以来再婚することもなく、旦那が建てた家に一人で暮らしている。舅姑や、実の両親も流行病で亡くなった。華もその病にかかって生死をさまよったのだが、あの医者が治してくれたのだ。

 この付近には西洋人がよく出入りしているらしい。外国人との交易はコーチシナ全域で行われているが、とりわけ嘉定に近づくほど西洋人やシャム人の割合は高くなる。理由は単純、嘉定総鎮が外国人に寛容だからだ。西洋人を疎んじる順化の宮廷とは違う。

 華が鉄砲を購入したのも、この辺りで商売を営むフランス人らしかった。そう言えば彼女が持っていた鉄砲アントワーヌ)は最新式のようだ。

 華にまつわる噂を本人がいない間に聞いているのは、どこか後ろめたかった。彼女があえて話そうとしないことは、今は知る必要がなかったのに。それでも、突然現れた旅人の訓たちに興味津々の人々は、あれこれと教え込んでくれるのだった。

「華ちゃん、かわいそう」

 華にやきもちを妬いているらしい女が、ひとしきり親切に見せかけたお節介な知識をぶちまけていった後で、翠瑠が呟いた。

「ずっと一人だなんて」

 翠瑠の言葉は親切と同情心から出たものだ。それは分かっている。だが、本人に聞かせたくはない。

「可哀想だなんて、華さんには絶対言うんじゃないぞ」

「どうして?」

「どうしてもだよ」

 翠瑠は口をへの字につぐみ、何か考えている。

「いいか。華さんが今聞いたような話を自分からしたのなら、可哀想って言ってほしいかもしれない。だが、今の話は知らない誰かが勝手に聞かせてくれたんだ。華さんの都合も聞かずに。翠瑠だって、母様に叱られた話を春がセシリアか誰かに聞かせていたら……それでセシリアに急に可哀想だねって言われたら、怒りたくなるだろう?」

「……恥ずかしいって、思うかも」

「そうだな。華さんも同じかもしれない。このことをよく覚えておこう」

「ごめんなさい」

「謝らなくてもいい。……翠瑠は、華さんのことが好きか?」

「うん、好き」

「じゃあ、「ありがとう」と「大好き」を沢山言うようにしような」

「華ちゃん、大好き」

「そうそう」

「……一体何をしているんです?」

 おずおずとした華の声がした。本人が帰ってきたらしい。彼女は困惑しているようだが、こっちだってかなり恥ずかしい。

「……お、お帰りなさい」

「ただいま戻りました」

家の前に立つ華の顔は逆光でよく見えなかった。

「どこから聞いていた?」

 華は恥ずかしそうに答えた。

「……ありがとうと大好き、って聞こえたところからでしょうか……」

 顔が熱いのは、まだ体調が優れないせいだろうか?

「あの……変な意味は特になくて……その、翠瑠にお礼をきちんと言わせたかっただけなんだが……」

「ええ、ええ、分かってますよ」

 早口で答える華。翠瑠がぴょんと立ち上がり、華に向かって手を伸ばす。

「華ちゃん、大好……き……」

 純粋な好意に満ちた言葉はだんだんしぼみ、ついには悲鳴に変わった。

「ああ! ごめんなさい。驚かしちゃって」

 何事だ? 上半身を起こすと、ようやく彼女の全身がはっきりと見えた。翠瑠が怯えた理由がよく分かると同時に、訓自身もたじろいだ。

 華は血まみれだった。右手にむき出しの臓物、左手に赤身肉を鷲づかみにして、黒ずんだ着物も顔も真新しい血のりが飛び散っている。背負った鉄砲だけが一辺の汚れもなく黒光りしているのが尚のこと不気味だった。

「私、ついいつもの癖で……外で獲物を捌いたそのままの格好で中に入ってきちゃいました」

「持っているのは……?」

「これ、猪の腸と心臓です。食べると元気になれると思って。鍋に入れると美味しいんです」

 翠瑠が後じさりする。

「な、泣かないで、翠瑠ちゃん。私よ。悪魔や妖怪じゃないわ」

「今の姿はどう見てもそれです」

 思わず訓は呟いた。

「ひどい……」

 華が笑いながら皿の上に肉と臓物を置いた。笑うと一層恐ろしさが際立つ。

「今日は肉鍋で宴ですね。ああ、誰かが野菜とお酒もくれたみたい」

「念の為に聞くのですが……それ、本当に猪の肉でしょうね?」

「それ以外に何があるっていうんです?」

 血をつけた顔のまま、華がくるりと振り向いた。

「まさか訓先生、私が人間を撃ったなんて思っているんじゃないでしょうね?」

「い、いや……まさか」

「そう、まさかですよね」

 ぶつ切りにした肉と野菜を鍋に放り込み、豪快に酒と水を入れる華。

「今夜は三人で沢山食べましょうね。お肉は食べられないなんて今更言わないでしょう?」

「ああ……」

 次々に肉をぶち込む華に恐る恐る声をかける。

「肉の量が多過ぎやしませんか?」

「大丈夫です。余っても全部私が平らげますから。だって私……」

 華は鍋から顔を上げ、にっこりと可愛らしく笑った。顔についた血を拭ったおかげで、少し猟奇が薄れていた。

「狩りをすると、お腹がぺこぺこになるんですもの!」




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