第2章 6(父を知る人)
全身が熱かった。悪い夢をいくつも見たのだが、どれもするりと頭の中から抜け出していってしまう。呻き声を上げると、額に誰かがひんやりとした物をのせてくれた。水で濡らした手ぬぐいらしい。
翠瑠らしい声が聞こえた。目を開けようとしたが、瞼が重かった。諦めてまた意識を手放す。
次にやっと目を開けた時は、夜になっていた。
随分眠っていた気がしたが、まだ一日も経っていないのか。未だに熱を帯びた頭を動かすと、隣で翠瑠が眠っているのが見えた。
彼女も無事か。訓は安心した。あの時は本当に__どうなることかと思った。
「目が覚めましたか?」
穏やかな声がした。蝋燭を持った女が訓の顔をのぞき込んでいる。「ああ」とか「ええ」とか要領を得ない返事をすると、女はふっと笑みを漏らした。
「どうぞ、そのままで。動くと傷に障ります」
手が顔の側に伸びてきて、滑り落ちた手ぬぐいを拾い上げた。それを持って女は立ち上がる。戻ってきてまた額にのせてくれた時には、手ぬぐいはまた冷えていた。洗い直してくれたらしい。
「喉は乾いていませんか?」
訓はうなずく。すると女はお椀一杯の水を飲ませてくれた。喉と腹に染み込んでいくようだった。
「ありがとう……」
しゃべったのは久しぶりな気がした。詰まったような変な声しか出なかったが、女は笑わずにうなずいた。
「ご無事でよかったです。傷が元で死んでしまってもおかしくはなかったわ」
「そんなにひどい傷でした?」
「血がしばらく止まりませんでした」
どうりで、だるさが止まない訳だ。
「翠瑠は……」
「お子様は無傷ですよ。だけど、あなたのことを随分と心配しています。ついさっき、泣き疲れて眠ってしまったの」
俺は再び翠瑠に目を向けた。蝋燭に照らし出される丸い頬。涙の筋がくっきりと残っていた。彼女を一人ぼっちにしなかった神の思し召しに感謝した。
「ご苦労をかけて申し訳ない」
「いいえ」
女は微笑んでいる。
艶やかな黒髪を背中に垂らした女は、とても美しかった。日に焼けた肌には皺一つない。長い睫毛に縁取られた涼やかな瞳は、蝋燭の灯を受けて輝いているように見えた。鮮やかな口から覗く歯は真っ白だ。
「社の男の人たちが、あなたを運んでくれたんです。傷の様子を見てくれたのは、西洋人のお医者様」
「この社にも西洋人がいるんですか?」
「ええ。あなたもそうでしょう?」
訓は思わず自分の顔を撫で回した。
「商いをやっておられる方かしら。それにしては荷物が少のうございましたね。では、司祭様かしら?」
訓は緊張した。司祭に間違えられることはこれまでに何度もあった。実際、ほとんど同じ職務についているのだし。だが、この社がキリスト教に寛容か否かでするべき返事が異なってくる。
「この見た目は西洋人に見えるでしょうね。だが、私は半分大南人です。父親がフランス人で、母親が大南人だから」
華は大して驚かない。訓が不審に思ったのを察したのか、やんわりと付け加えた。
「私だってキリスト教徒ですもの」
「何だ、そうだったのか」
途端に口調が粗雑になる。しかし無礼に顔をしかめられることもない。
「お名前は?」
「洗礼名はバルバラですわ」
「いや、本来のお名前も教えてほしい」
女は嬉しそうに口の両端をつり上げた。
「華と申します。黎華です」
「俺は阮訓といいます」
「訓さんですね」
覚え込もうとするようにしみじみとうなずき、華は呟いた。
「どこからいらっしゃったのですか?」
「ここより少し北東の社です。嘉定に向かっています」
華が驚いて口に手を当てた。
「今ですか」
「今です」
華が懸念しているのは、件の反乱だろう。
「憚りながらご忠告しますが……少し危ないかもしれませんわ」
「承知しています。知り合いが嘉定にいるのです。心配で、様子を見に行きたくて」
「そんな事情だったのですね」
華がふっと息を吐いた。
「一刻を争うのでしょうね?」
「そうですね。有り体に言えば」
「でもまずは、その傷を治さないと」
華が訓の腹に目を落とす。
「やられたのが足でなくてよかったですね。ずっとびっこを引き続けることにならなくて」
全くだ。
「申し訳ないが、少しだけあなた方の社で休んでもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ。歓迎します」
華は艶然と微笑んだ。
「だって、汝の隣人を愛せよ、ですから」
夜が明けてから、医者と社の住民たちが訪ねてきた。
どうやら相当心配をかけていたようで、訓たちの存在は社全体に広まっており、入れ替わり立ち替わり見知らぬ人々が顔を覗かせる。華は一人一人に丁寧に挨拶していた。彼女は皆から好かれているようだった。
老いた医者はフランス人だった。訓の住む社の医者と同じように、元々はパリ外国宣教会上がりの聖職者だ。医術の勉強をパリで修めていたので、布教に訪れてから乞われて医者に転職したのだ。もう何十年もコーチシナに住んでいるため、大南語には訛りがなく、服装も現地仕立てのものである。
傷の様子を見て、こまめに包帯を替えるように言い、解熱薬をくれた。峠は越したらしい。あとは寝ていれば回復すると彼は告げた。
「それと、そうだな、少なくなった血を補うものを食べなくてはね。猪の肝とか、血の腸詰めとか」
後ろで聞いていた翠瑠が口を押さえる。「おいしいのよ」と華が慰めていた。
「ところで、君も西洋から来たのかね?」
医者の顔は好奇心で輝いていた。
「私自身は帰仁で生まれました。父親がフランス人宣教師です」
「ほうほう。ちなみに、お父上のお名前は?」
訓がひるんだのを見て取ったのか、医者は慌てて手を振った。
「いや、ひょっとしたら知り合いかもしれないと思ってね……」
「もしかしたらご存じかもしれません。ピニョー・ドゥ・ベーヌです」
医者は目を瞠る。
「……アドラン司教猊下か!」
「はい」
「何度かお会いしたことがある。コーチシナ行きを任じられた時に迎えてくれた。あの方はコーチシナ代牧でもあったね」
「そうだろうと思います」
「私が来たときは、既に戦が始まっていたなあ」
医者はしみじみと呟いた。
「医術の心得があるから、嘉隆帝陛下の軍に歓迎されたんだよ。兵士の治療を任された」
あの頃は地獄だった……と、医者がゆっくりと言葉にする。
「私が見た範囲でも、実に凄惨な戦いが繰り広げられていた。象に踏みつぶされ、もう死を待つばかりの兵士や、砲弾が暴発して手足が吹っ飛んだ住民が次々と運ばれてきて……。当時は夜も眠れなかった。いや、戦なんてやるものじゃないね」
「父を恨みませんでしたか?」
「別に。不満や疑問を持つ暇なんてなかったよ。それに、猊下が悪い訳じゃない。戦を起こしたのは西山阮氏と嘉隆帝陛下だ。誰がそこにいてもきっと巻き込まれていたさ」
訓を気遣っての言葉だとすぐに分かった。
「いやしかし、猊下に息子さんがいたとは知らなかった。やっぱり司祭になったのかい?」
「私はカテキスタです。司祭にはなれません」
「それでも立派な仕事だ。私にも大南人の助手がいるが、随分頼りになる」
医者は手早く道具を片付け、立ち上がった。
「あの、お代は俺の財布からとってください」
「いらないよ。華さんに獲物を分けてもらったからね。要らんこと心配していないで安静にしていなさい」
華がこちらに向かってうなずいた。世話になりっぱなしだ。
「血は止まっているから、後は体調を治すだけだ。たっぷり食べる。よく眠る。いいね」
出て行こうとしている医者を目で追ううちに、妙な気を起こしてしまった。父親の話をしたせいで、頭が混乱していたのかもしれない。
「待って下さい」
呼び止めると、医者がゆっくり振り返る。
「父をどう思いますか? 司祭失格だとは思いませんか」
「君がそう思っているのかい?」
「はい。正直に言えば」
急に周囲が気になり始めた。華や翠瑠の前でする話ではない。だが手遅れだ。
「お父上が生臭ボンズであることが気になるんだろう。戦もしたし、こうして息子がいることだしね。だが、私はそれが悪いとは思わないね」
ふと医者は照れたような表情になった。
「私にも妻子がいる。猪肉が何よりも好物だし、酒だって毎晩飲んでいるよ。だけどそれで神への後ろめたさを感じたことは一度もない。私の治療で助かった患者が何人もいるからだ。人を救ったのだから多少決まりを破るくらいいいじゃないか。アドラン司教猊下だって同じ。あの戦で賊軍から逃れて平和な暮らしが出来るようになった民が大勢いる。皇帝陛下たちだってきっと、お父上に感謝しているさ。もっと楽に考えたまえ」
鷹揚に手を振って、医者は今度こそ華の家を出て行った。
華も立ち上がり、鉄砲を手にとった。金具を動かす硬い音が家の中に響き渡った。
「私も出かけてきます。このアントワーヌが火を噴く時がきました」
「な、何です?」
訓は突然のアントワーヌに動揺した。
「この鉄砲の名前です。西洋の軍人が売ってくれたんです。その彼の妹さんがアントワーヌだったから、そこから名前をとりました」
何故武器に名前をつけるのか、非常に気になった。いや、それよりも……
「これから……何をするつもりですか……?」
華は恥ずかしそうにくすくす笑った。
「嫌ですわ、人を撃ちに行くんじゃありません。狩りをするんです。美味しい獣の肉を食べて貰いたいから」
「ああ……よかった」
「休んでいて下さい。そんなに時間はかかりません。翠瑠ちゃん、お父様をよろしくね」
出かける間際だが、間違いは訂正しておきたかった。
「翠瑠は俺の子じゃない。友人の妹です」
「え……」
華が何故か動揺して弾の入った箱を落とす。翠瑠がぱっと駆け寄って拾い集めた。
「そうなんですね。ごめんなさい、勘違いしてて……」
かき集めた弾を受け取り、そそくさと身支度をする。
「ありがとう。じゃあ、行ってきます……」




