第2章 4(狼)
足音がした。それで、一気に目が覚めた。
遠慮なく草を踏み潰す騒がしい音。一人だ。よどみなく近づいてきて、空き地で止まった。
心臓が跳ねる。下手に身動きすれば物音で居場所がばれてしまう。いや、ここにいることを知られたところで何の問題があるというのか?
薄目を開けた。朝日と霧で、視界は白んでいる。傍らの翠瑠はまだ起きていない。首だけを回して下に目を向けた。
簡素な旅装の男が一人、かがんで地面の上の何かを調べている。何を見ているのか。男が黒ずんだ欠片を拾い上げたところで分かった。自分たちの焚き火の跡だ。
彼は薪の残骸を見つめ、動かない。何とはなしに背筋がぞくりとした。彼が何者かも、焚き火を見て何を測ろうとしているのかもまだ分からない。だが、ただの近隣住民ではないと直感で分かった。
男の着物は無地の茶色で、さして目を引く点はない。きちんと結い上げられた黒髪に銀色の簪が光っていた。顔を見ようとわずかに身を乗り出した時、男は立ち上がった。
男は周囲を一通り見渡したが、訓と翠瑠には気がつかなかった。一つうなずき、指笛を吹いた。すると草むらをかきわけて、大きな体躯の山犬が五頭現れた。
山犬たちは男の仕草に合わせて大人しく座り込む。翠瑠よりも遙かに大きい。はあはあと息をする真っ赤な口から、刃のような牙が覗いた。
木の上にいるのがばれてしまったら? 犬は木登りが出来ないかもしれない。だが、人間は違う。奴らの主人が悪意のある人間だったら……?
戦いている間に男は山犬に背を向け、森の向こうに歩いて行った。獣たちも後をついていく。縦一列に並んでとぼとぼ歩く様は蟻の行列のようで、つい笑いが込み上げた。難を逃れた安堵も相まって止まらなくなった。
「先生……?」
翠瑠が寝ぼけた声を出した。
「何笑ってるの?」
「ああ、おはよう。何でもないよ。よく眠れたか?」
「うん。……でも、変な夢見た」
「ほう」
「何だかとっても面白かったんだけど、ピーッて音がしてめちゃくちゃになる夢。あんまり覚えてない」
「あいつの指笛のせいだな」
「え?」
「何でもない」
彼女も目を覚ましたことだし、木から降りなければ。上半身を出来る限り伸ばし、固まっていた体をほぐした。腕がすっかり痺れてしまい、枝を掴めるようになるまで随分時間がかかった。降りるのは、登るよりも簡単だった。干した果物を翠瑠に食べさせた後、神に感謝した。
男が消えた方角に目を凝らす。獣の鳴き声も足音ももう聞こえない。川に沿っていくとすれば、嘉定は同じ方角ということになる。
彼も嘉定に向かっているのか。山犬を連れて反乱軍に参戦するのかな。
何にせよ、厄介ごとを避けるには、十分な距離をとった方がよさそうだ。
「起きたばかりだから、ゆっくり歩こうな。なるべく足音もたてないようにしよう」
翠瑠に言い聞かせると、素直にうなずく。
「先生、あのね」
「何だい?」
「兄様にお土産を持っていった方がいいかな?」
「お土産だって?」
「母様が言ってた。お土産があれば人は優しくしてくれるんだって」
「そうか。それは例えば、お役人様とか?」
「うん」
小さな子に下らないことを教えるもんだ。
「何がいいと思う? お金? 織物?」
「翠瑠が摘んだ花や果物でいいんじゃないか。英路にとっては」
と言いつつも、「便宜を図ってもらう」ためには賄賂を用意しておくべきだったかと今になって後悔する。
嘉定に着いても、総鎮の城においそれと入れて貰える訳はない。英路に会うのも一苦労だろう。そんな時、都の事情をよく知っている者に賄賂を握らせると大いに時間の短縮になる。
一介のカテキスタにそんな大金はないけれど。だが、確か家の雑多な物入れに、小さな金色の十字架が入っていた。あれは純金だと誰かに聞いた覚えがある。誰に貰ったかも分からない代物だが、売ったらなかなかの値段がつくかもしれない。大方、フランス人司教が気まぐれでくれたのだろう。子どもの頃は随分可愛がられていたから。
「お土産のことは後で考えような。今はとにかく嘉定まで辿り着いて、英路に会うのが先決だ。元気な翠瑠の顔が一番のお土産になるさ」
「うん!」
翠瑠の顔がぱっと晴れた。
先に通ったものがいるせいか、今朝は歩きやすい。周囲の鋭い草まで踏みしだかれている。所々、草の先端に茶色や白の犬の毛がついていた。
「嘉定まであとどれくらいかかるかな?」
「そうだな、三日ぐらいかな」
「……長いね」
「こう考えるんだ。昨日のうちは、あと四日だった。それが一日も縮まったんだぞ。明日になればあと二日で着くことになる」
「わあ、ほんとだ!」
翠瑠は素直に感心した。説諭を行う信徒が皆こうだったらどんなに楽かと思った。
正午の時間になるまでは、漆にかぶれることもなく旅を続けた。途中で木になっている果実をもいで、歩きながら食べた。柔らかく熟れた果肉はじんわりと甘く、一つずつ食べるだけで腹が満ちた。
翠瑠は少しずつ旅に慣れてきている。珍しい蛇や獣を木の上に見つけても、前ほど騒がなくなった。はしゃぎすぎたら疲れると理解したのだろう。
彼女はその歳にしては我慢強い。疲れてもそんな素振りを見せまいと努力している。訓が休憩を提案するまで、自分から休みたいとは決して言わない。それどころか、少しばかり腰を下ろすとまたすぐに立ち上がり、早く出発しようと訓を急かしさえするのである。
よほど兄を慕っているのだと訓は横目で翠瑠を見ながら思った。まだよちよち歩きの頃から、翠瑠は英路にくっついて回っていた。英路はいつでも翠瑠の師匠で、庇護者で、親友だった。嘉定に働きに行ってしまうまでは。
反面、翠瑠は両親とそこまで上手くいっていない。母親の言うことは従順に受け入れているが、心の底から信頼してはいない。
『母様は、翠瑠をよくぶつの』
そう訓にこっそり訴えたのは、まだ七歳の頃だった。その時は既に、キリスト教に改宗した兄と両親の対立が深まっていた。両親は英路の説得を半ば諦め、代わりに翠瑠だけは自分たちの側に留めておこうと躍起になっていた。
彼らは翠瑠を屋敷から出さないようにした。逆に英路は屋敷から追い出し、許可なしに実家に入らぬよう申し渡した。(だから、その時期英路は訓の家に寝泊まりしていた)時折英路は家人の目を盗み、翠瑠を外に連れ出した。しかしその後兄妹には親の激しい叱責が待っていた。春の手引きもあってか、いつまでも英路が関わろうとしてくるのが、両親にとっては許せなかったようだ。英路が十五になった春、とうとう正式に勘当を叩きつけられた。
両親が翠瑠を放さない気持ちもよく分かる。彼らには翠瑠と英路しか実の子どもがいないのだ。反対に、英路が翠瑠をキリスト教徒にしたがる理由も訓はよく承知していた。簡単なことだ。自分たち聖職者が命じたからだ。出来るだけ多くの異教徒を改宗させろ。子どもの方が容易い、何でも信じ込む内に価値観を植えつけろと唆した。
その結果翠瑠が母親に嫌われ、辛い思いをするくらいなら、彼女を説得するのはもうやめろと訓は英路に言った。妹が本当に大事なら、これ以上苦しめるな。翠瑠はお前と違って、まだ家を出ることもできないんだ。彼女の環境を生き地獄にするな。しかし、他の司祭たちの意見は違った。最も大事なのは妹を改宗させ、いずれ来る地獄から救うことではないのか。そのためならば、今起きている対立など何ほどでもない。お前はやる気がなさ過ぎる。
……最後の言葉は訓に向かって告げられたものだ。嫌なことを思い出してしまった。
この言い争い以降、英路は無闇に翠瑠を引っ張り出そうとするのをやめた。周囲の人間への布教も、大っぴらに進めることはなくなった。時が経つにつれ、母親との関係は少しずつ改善し、翠瑠も短い間なら教会に遊びに来てもよくなった。連れてくるのはいつも春だ。彼女もあれで抜け目のない性格をしているらしく、キリスト教徒であることを主人には隠して信用を勝ち得ているようだった。
この旅が終われば、翠瑠はまた家族の元に戻る。無断で抜け出してきたのだろうから、騒動になるのは必至だ。その時は出来る限り力になってやりたいと思っている。
だがそれも、途中で命を落とさなければ、の話だな。馬鹿でかい蜘蛛が頭上に巣を張っているのを目撃して、動揺と共にそう考えた。何だ、あの鮮やかな模様は。絶対に毒がある。
「なあ翠瑠、嫌いな虫はいるか?」
ふと尋ねてみた。
「はえと蚊。ぶんぶんうるさいもん」
「じゃあ、蜘蛛は?」
「蜘蛛は縁起がいいんだって。おうちでは巣があってもとらないの」
悪戯心が湧いた。
「上を見てごらん」
翠瑠は立ち止まり、顔を上げた。彼女のつぶらな瞳に、じっと動かない蜘蛛の姿が映り込む。一瞬固まって、翠瑠は大きな悲鳴を上げた。
「あ、あ、何あれ! 妖怪? 食べられちゃう?」
「落ち着け! あれはただの蜘蛛だ」
彼女の声で脆い巣が揺れた。蜘蛛が慌てたように動き出す。巣の一部が壊れて、蜘蛛はゆっくりと一本の糸でもって下がってきた。翠瑠が更に叫ぶ叫ぶ。
「逃げようか」
刺されたら大事だ。そそくさとその場を後にする。翠瑠は半泣きで足を動かしていた。
「悪かったな。怖がらせて」
「先生ひどい……」
「もう大丈夫。ここまでは追ってこない」
「もういない? あの蜘蛛だけ?」
「それは……どうだろう」
正直に曖昧な返事をしてしまったのがいけなかった。不安に感じた翠瑠は、不幸にも今いる場所の頭上が気になった。訓もまた、一度恐ろしいものを見てしまうと、愚かにもどんどん深追いしたくなる性格だった。
二人は同時に上を見た。そして知ってしまった。今歩いている森の木々は、大皿ほどもある蜘蛛の群れでいっぱいだった。
うじゃうじゃと蠢く足の多い虫に、翠瑠はもう悲鳴を上げなかった。ただ、静かに血の気が引き、その場にへたり込んだ。
訓は慌てて翠瑠を助け起こす。彼女は魚のように体の力が抜けていた。そのまま彼女を抱えて、訓は走り出した。
いくら走っても、森はまだまだ抜けられそうにない。時折周囲を見てしまい、その度にまた別の蜘蛛を見つけ、さらに足が速くなる。しかし、ある時点で足を止めざるを得なかった。
音が聞こえたからだ。前方から、尾を引く遠吠えと、地面に響く足音が。そうだ、忘れていた。前を山犬が歩いていたのだった。だからゆっくり、静かに歩こうと決めていたのに。気づいた頃にはもう遅い。あっと言う間に目の前に目をらんらんと光らせた山犬が現れ、低い声で唸った。遊びのない動きで五匹の山犬が周囲を取り囲む。後ろにはもう戻れない。
翠瑠が気づいて、あまりの恐怖にまた意識を失った。自分だってもう何もかも分からなくなったらどんなに楽か。しかしそれは身の破滅だ。そもそも頭は十分に冴えていて、気絶できる気配もない。
木にまた登るのは無理だ。完全に囲まれてしまったし、蜘蛛が張り付いている幹にしがみつきたくない。
ああ、そういえば__現実から逃れようと今朝の出来事を思い出す。腕の一部が異様に赤く、痛んでいた。あれはもしかして、刺された跡だったのだろうか。
一頭が、飛びかかってきた。咄嗟に腕で顔と翠瑠を庇う。牙に皮膚を削り取られ、一筋の熱い傷ができた。ようよう身をかわすと、そこに別の犬が加わった。身を屈める。
不意に腹に激しい痛みが走り、立っていられなくなった。見ると山犬が脇腹に噛みついていた。蹴り上げたが、離れた後も痛みと血は止まらない。
もはやこれまでか? 短い旅だったなと思う。短剣を遅まきながら抜いて、どう使うべきか逡巡した。わずかな希望をかけて犬に切りつけるか、それとも食われる前に翠瑠を殺すか。




