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第2章 3(訓と英路)

 森を歩くのは楽しい。比較的涼しいし、あれこれと取り止めのない思考を思う存分楽しめるからだ。村で滅多に見ないような猿や小鳥の生活を垣間見られるのも良い。

 村で大勢を相手にしている時よりよほど寛大な気持ちになれる。道徳的規範や人付き合いに縛られることもないし、反対に、誰か相手に自我を押しつける必要もない。

 注意せねばならないのは野生動物の脅威や森の中での遭難だが、そこまで恐怖を覚えることもなかった。

 動物とは、意思疎通ができない。当たり前のことだ。しかし、訓は非常にその点を気に入っている。

 人間関係で一番難しく、心をすり減らすのは、相手を理解し、また自分を理解させることだ。彼はそう考えている。いくら宣教師が大南の言葉を習得し、言葉を尽くしたとしても、ぽかんと口を開けて拝聴している異教徒がどれだけ内容を理解したのかは本当には分からない。

 かつての英路のように面と向かって疑問をぶつけてくる奴はまだ分かりやすくていい。問題は、宣教師と対話する中で密かに失望し、以来面従腹背を決め込む輩だ。信仰とは無関係な理由を秘めて近づいてくる信者もいる。

 宣教師のやり方として、キリスト教の教えを説くと同時に、土着の信仰を否定する。先祖崇拝は意味がない、数多ある神廟を拝むのは愚かな習慣だ。儒教は神の介在がない思い上がりと誤りに満ちた人間の創作だ。キリスト教を信じない者は須く地獄行きだ。これで改宗する人間はよほど人が好い。

 勿論、宣教師側にもちゃんとした理屈があってそのような主張をしていることは訓も知っている。民間信仰とキリスト教を混ぜるのはいろんな意味で危険だ。キリストの教義が土着の祭祀にぼやかされるのは避けたい事態であるし、そもそも異教の神の存在は何であろうと認められない。神は唯一、そしてキリストがいる。例外はない。

 隣の大国、清ではかつてイエズス会士が祖先崇拝を認めたせいでローマ教皇庁から厳しい処分を受けた。今ではほとんど活動不能に陥っている。様々な点でイエズス会の失敗を教訓とするパリ外国宣教会は、布教方針の逸脱にうるさい。

(もっとも……)

訓の口元から苦い笑みがこぼれた。

(神職が武器を持つ以上の逸脱はなかなか無いだろうな)

 同じ宣教師同士でも布教のあり方でこれほど食い違いが出るのに。ましてや立場も育ちも何もかも異なる大南の民と宣教師では、歩調を合わせることすら不可能だ。民を相手に聖書を語りながら、今までどれだけやきもきしたことか。司祭たちもそれを分かっていながら無駄な努力をする。子供のうちからラテン語を字喃よりも先に覚え込ませ、小さな西洋人に仕立て上げようとしている。

 面倒だ。その一言で、訓は無限に広がりそうだった思考の宇宙を縮ませた。結論を出せないうちはやたらと考え込まない方がいい。代牧区の運営方針を決めるのは司教たちだ。しがないカテキスタは、自分の職務のことだけ気にしていればよい。

 だが、思考停止に陥るのは嫌いだった。水上劇に使われる人形のような、意志のない動きも。ひねくれている自覚はあるが、知らぬ間に司祭たちが決定した事項を自分たちの目の前に提示してくると、喚き散らしながら紙をびりびりに破りたくなる。そのくせ、実力以上に重く扱われるのも苦手なのだから、我ながら面倒な男だ。

 本当は、全て自分一人の采配で動かせるような__完全かつ小さな世界で生きていたい。誰にも迷惑をかけず、かけられることもなく。孤独であっても考えることは山ほどあるから、退屈しない自信はある。 

「ねえ、先生」

 翠瑠の声で、とりとめなく流れていた思考が断ち切られた。

「何だ?」

「かゆいの」

 ぎょっとして翠瑠がしきりと掻く腕を調べると、赤い発疹がいくつもできていた。

「ウルシだな! かぶれたんだ。掻くんじゃないぞ!」

「でも……」

 翠瑠はべそをかいた。痒くてたまらない気持ちはよく分かる。藪蚊の大群に襲われたことがあるからだ。あれは酷かった。

痒みに効く薬など持ってきていない。迂闊だった。とにかく英路に会うことばかりを考えていて、道中で怪我をすることなど予想もしていなかったのだ。

 翠瑠が真っ赤な頬を激しく掻きむしる。

「やめろ! もっとひどくなるぞ。両手を上げろ。俺がいいと言うまで下ろすな」

 やだとかかゆいとか散々文句を言いながら、翠瑠は細い腕を天に向かって伸ばす。

「近くに川があるはずだ。かぶれた所を洗い流そう」

「洗ったら、ちゃんと治る?」

「何もしないよりはずっといい。薬は……どこかの社に着いたら分けてもらおうな」

 ひどいかぶれを引き起こす植物は、丁度翠瑠の背丈ほどで群生していた。彼女がてくてく歩いている内に自然と顔や腕に葉が触れ、それが長いこと続いたのだろう。

 川に着くまで、肩車することにした。珍しい経験に翠瑠は痒みも忘れたようで、しきりに歓声を上げる。それだけならまだいいのだが、木に猿がいると言っては手を伸ばし、果物が届きそうと言っては身を浮かす。訓の手の中で彼女の足がぶらぶら動いて肩を蹴った

「揺らすな! 落ちるぞ!」

 怒鳴ってもなかなか聞かないのだから、子どもは一筋縄ではいかないのだ。どれだけ危ないことをしているか分かっていない。

「先生、見て! 変な鳥がいる」

「はいはい、変な鳥だな。だが捕まえることはできないだろうね」

「どうして? もうちょっとで……」

「立とうとするんじゃない!」

 不安定な肩の上で翠瑠を押さえつけ、大股でゆっくりと歩いた。着物の上から鋭い刃物のような草や刺のある葉がぶつかってくる。だが、肌まで届くほどこの生地は柔じゃない。

 元来が川に沿って歩いていたから、水場を見つけるのはそう難しくなかった。岸のぎりぎりまで勢いよく生えた草を容赦なく踏みしだく。

「わあ!」

 喜ぶ翠瑠。今に冷たい水で顔を洗ってやるからな。そう言おうとしたが、

「すごい! 大っきな魚がいるう」

「川に投げ落とすぞ」

 人の心配もしらないで、翠瑠ははしゃぎきっているのだった。

「ね、ね、泳いでもいい?」

「駄目だ。お前くらいの背丈ならきっと足がつかない。水の中に沈んでしまうぞ」

「沈むの……」

 腕の中で少しだけ顔を曇らせる翠瑠。まだ赤くかぶれた部分をぴちゃぴちゃと洗ってやりながら、もう少し脅かしてやろうかと思った。

「おまけに、川の中には人も食ってしまう巨大な魚がいるんだぞ。鋭い牙があって、木だってばりばりかみ砕けてしまうんだ。恐ろしいだろう」

 翠瑠はこくりとうなずいた。すっかり静かになってしまった。

 しまった。これでは、やり過ぎだ。

「先生、早く出よう。食べられちゃう」

「悪かったな。今の話は嘘だよ。人を食べる魚なんていない。いくらでかくても、魚は所詮人に穫られる運命なのさ」

「ほんと? 翠瑠をかじりに来ない?」

「来ないよ。来たとしても俺が追い払ってやる」

 先生は強いんだ、と少女に向かって威張ってみせた。

「なにせ、魚でなく人を捕る漁師だからな……」

 翠瑠が首を傾げる。

「なあに、それ?」

「いや、何でもないよ」

 キリシタン冗句は彼女にはまだまだ分からない。

「腕や顔はどうだ?」

「ちょっと……かゆくなくなった」

「そりゃあよかった。さあ、暑いけど肩まで浸かったらもう上がろうか。夜までに着物を乾かしてしまわないとな」

 おっかなびっくり水の中に浸かった翠瑠は、訓の腕にしがみつき、川の流れに押し流されぬようしばし耐えた。滝を遡ろうとする鯛よろしく、かなり急な流れに逆らって足をかくのは楽しくて仕方ないようだ。おかげで髪も着物も草履も、すっかり濡れてしまったが。

 このまま川の中を歩いて嘉定に向かうのも悪くない。そんな馬鹿げた思いがよぎった。水をはね散らかしながら流れに身を任せるのは魅力的だ。問題があるとすれば、冷えで体を壊してしまうことである。空を仰ぐと、太陽はかなり西に傾いていた。灼熱のコーチシナといえど、夜はなかなか寒くなる。焚き火で着物を乾かしながら裸で火にあたるというのもぞっとしない。

 翠瑠が小さくくしゃみした。潮時だ。彼女を川からすくい上げ、喉の渇きや翠瑠の文句に耳を塞いで岸辺に上がった。草むらに水滴が飛び散り、バッタが何匹も逃げていった。

 気づけばもう日が暮れようとしている。嘉定まであとどれくらいか、歩いてきた距離と時間から逆算して予想した。進捗は悪いと言わざるを得ない。

 夜が来るまでに、衣を乾かして体を温めなければ。濡れたままの衣を纏って寝るのは危険だ。過度に体が冷えて、よくない風邪を引く元となる。

 健康の秘訣は、過度に体を冷やさないこと。汗をこまめに拭き、肌を常に清潔に保つこと。フランス人宣教師に習った心得の一つだ。彼らは本国から辞書と十字架だけでなく、最新式の医術も持ち込んでいた。

 行きと同じく翠瑠を頭の高さに抱え上げ、植物に攻撃されないように守りながら森の中に入っていく。大人と子どもが休める程度の、目をすがめ、乾いた空き地を探した。じきに遠くまで見渡せなくなる。焦ったおかげで、ちょうど良い野原が見つかった。

 翠瑠は先程の騒ぎが嘘のように黙りこくっていた。だんだん日が傾いていくことに恐れを感じているのかもしれないし、単に川遊びで疲れたのかもしれない。もう痒いと訴えることはなかった。子どもの良いところの一つだ。怪我や病が早く治る。

「着物が濡れて気持ち悪いだろう。これから焚き火をするからな、それまでの我慢だ」

 翠瑠が小さくうなずいた気配がした。ふと気がつく、こんな風に召使いにも家族にも守られずに、外で一日中過ごすのは、この子にとって実に初めての経験なのだ。どんなに心細いだろう。

 焚きつけにするため、枯れ枝を集める。地面に降ろされた翠瑠は手伝いのつもりか緑の草をむしって持ってくる。

「お腹は空いているか? 干し魚を炙って食べよう。平民の食べ物でも美味しいんだぞ」

「お魚?」

「そう。翠瑠はどんな魚が好きかな」

「……なまずの香草焼き」

「そりゃ美味しそうだな。俺もいつか食べてみたいよ」

「うちに来たら、食べられるよ?」

「少し難しいな……それは」

 翠瑠と英路の両親はキリスト教徒を毛嫌いしている。とりわけ、青い目の西洋人は天敵だ。訓の外見ではとてもご馳走に招かれるのは無理だろう。

「兄様は……鱒が好き」

「へえ、英路が」

 石を打ちつけ、生まれた火種を枯草に移す。翠瑠が興味津々で見つめているので、息を吹き付けるように言った。やがて小さな焚き火が出来上がる。どんどん薪を加え、火を大きくした。

「熱い」

 翠瑠は無謀にも火に触れようとしていた。

「やめろ。痛い思いをするぞ」

 指を引っ込め、未練がましい顔で火を見つめる翠瑠。黒い小さな瞳に、明るい火が映り込んでいる。それをぼんやりと眺めているうちに、訓は奇妙な記憶に絡め取られていく。

 今の翠瑠のように__そう、まだ彼女くらいの年の時に、俺もこうして自然の中にいたことがある。それも、単に社の中での散歩じゃない。見たことのない景色の、歩いたこともない場所で、途方もなく不安がりながら歩いていた。泣いたこともあったかもしれない。あの時、異常に痒くて情けなかったのも覚えている。きっと翠瑠と同じくウルシか何かにかぶれたのだろう。

 その時、俺は誰かと一緒にいたのだろうか? __きっとそのはずだ。歩いているうちに社の大人に見つかって、叱られる代わりに別の誰かが話をしていたのを漠然と覚えている。その様子が何故だか妙に頭に残っているのだ。普通の社人同士の会話とはどこか違う、上手く言い表せはしないが妙に不気味な雰囲気が漂っていたから。

 一緒に歩いたのは誰だったのだろう? 交わした会話の中身などは当然覚えていない。顔すらぼんやりとしか思い出せない。

 父親ではないか? と一瞬思いつき、……すぐに打ち消した。父親が帰仁で死んだのは訓が六歳の頃だ。それまでも彼は西山阮氏との戦いに明け暮れ、家族と散歩する時間などなかったはずだ。

「家族」という言葉を出したことに、自分でも驚いた。そして、馬鹿馬鹿しいと心の中だけで首を振る。小さな社の中で一つの家に住み、生活を共にしなければ家族とはとても言えない。いくら血がつながっていたとしてもだ。少なくとも、訓はそれ以外の家族の形を知らなかった。

 川に入る前に、荷物は降ろして草むらの中に隠しておいた。だから、濡れも欠けもしていない干し魚をくるんだ油紙から取り出して、そのまま枝に突き刺して炙った。香ばしい匂いが食欲を刺激する。他にも、生徒の一人が作ってくれたお握りがある。翠瑠に分けると、大きく口を開けて嬉しそうに頬張った。塩が効いていて美味しいが、同時に生徒に申し訳ない気分になる。塩は高値だ。内陸に行くほど手に入れるのが困難になる。

 背後から、獣の鳴き声がした。翠瑠が飛び上がる。

 咄嗟に彼女の口を塞ぎ、低い声で言い聞かせる。

「大丈夫だ。獣は火の側には来ない」

 とはいえ、大声を出されると話は別だ。まだ正体も知れぬ獣を不用意に興奮させたくはない。

「小さな声でしゃべるんだ。いいな? 大丈夫だから。火を大きくしようか」

 そう言い含めてようやく手を離すと、翠瑠は大きく呼吸をして、囁いた。よし、言いつけは守っている。

「あれは何?」

「そうだな、猿……ではないな。山犬かな。大猫の類いではない気がする」

 少女は身震いする。

「わたしたちを食べに来ない?」

「大丈夫。神様がお守りくださるさ」

「わたしのことも?」

 はっとした。翠瑠は真剣だ。純粋さと質問が含むあまりに重い意味でもって、訓の頭を貫きに来る。

「わたし、神様の子どもじゃない。春もよくわたしに言うもの。お祈りしないから神様に近づけない」

「お祈りしてもしなくても、主は……神様は翠瑠を見守っている。信徒の子も異教徒の子も、神の子には変わりないんだよ」

「春と違うこと言う……」

 翠瑠は当惑しているようだった。景気よく薪を火にくべていたせいか、手元の枯れ枝が少なくなってきた。それだというのに、獣の鳴き声は増えているような気がする。周囲の木を見比べ、どれが一番登りやすいか考えた。

「春というのは?」

「うちの女中よ。仲良しなの。でも、たまに意地悪なこと言うの。わたしが神の子になれないのは、母様に逆らわないからだって。人形劇の人形みたく、母様の言いなりだって。春はわたしに神の子になってほしいの」

「ああ……信徒の女だな。英路に説得された」

 洗礼を受けて英路が最初にしたことは、家族や召使いに対する布教だった。彼は宣教師たちの語る、遠い秘境での冒険に憧れていた。宣教師になる第一歩として、まず身の回りの人々を説得してみろと司祭に命令されたのだ。英路はもう張り切って張り切って、大南語の聖書を片手に綿密な布教計画書を作ってさえいた。

 英路の良さは、生まれ持ったひたむきさだ。幼少期は父母から教わった儒学を信じ込み、一度キリスト教に触れるとすぐに夢中になった。彼の純粋な熱意が伝わったのか、召使いを初めとして何人もが最終的に改宗した。

 ただ、英路たちの父母は息子の変化を非常に苦々しく思っていた。だから、成人するとさっさと屋敷から追い出したのだ。後継ぎとなる息子は他にいなかったが、親族から男児を養子に迎えることで問題を解決したらしい。英路の科挙合格が絶望的になったのも、見切りをつけた理由の一つだともっぱらの噂だった。

 春の話は英路から何度か聞いた。英路の一つ年下で、利発で働き者の美人だと、英路は誇らしげに語っていた。英路が改宗した後は、屋敷の中で一番心安く話せる相手だった。英路は春に信頼を置いていて、春も彼を好いているらしい。そのうち、嘉定に彼女を呼び寄せて結婚するのかもしれない。下衆のかんぐりだが。

「その娘が、お前に意地悪を言うのかい?」

「うん。でも、いつもじゃない。春が母様に怒られた時だけ。その時は春も怒っているから、わたしをいじめる」

「あまり良いこころがけではないな」

「そう?」

 翠瑠は口元だけで少し笑った。

「なんだか、先生がそう言うとほっとする。変なの」

「変ではないよ。きっと翠瑠は誰かに春を断罪してほしいのさ」

 翠瑠は膝を抱え、訳もなく体を左右に揺らした。魚も米も、とっくに二人の腹の中に収まっている。明日出来るだけ遠くまで歩くために、そろそろ寝ることを考えなければならない。安全という点では、木の上に寝た方がいいだろう。枝から落ちる心配もあるが。

「チュンのことは好き。でも、兄様や神様の話をする時のチュンは嫌。なんだか馬鹿にしてくるみたいだから」

「神様の話をする英路は?」

「好き……ううん、よく分からない。難しい話ばっかりする」

「あいつは必要以上に凝った例え話をするからな」

 駱駝が針を通る話をするために駱駝の説明を二時間していたことがあった。

「兄様は、先生の所でどんなことをしていたの?」

 英路は、訓の指導する聖歌隊に初期から加わっていた。練習の時は妹を連れてこなかったのだ。

「そうだな……英路とは歌の勉強ばかりしていたよ。フランス語や神学の教育は同僚に任せてな。昔の俺は聖歌隊のことしか考えていなかったから」

 ピエトロにこの会話を聞かれていたら、「今もですよ!」と笑われただろう。だが、聖歌に割く時間は年々少しずつ減っている。書物の整理や翻訳作業が昔ほど手早く片付けられなくなったからだ。視力が落ちているのも理由の一つだが、それよりも、以前は適当に読んで流していた資料を精読するようになったからだ。大きな歴史も些細な文脈も一つ一つに意味があると思い、拘泥し始めると時間がいくらあっても足りやしない。

 若い頃は、音楽ほど素晴らしいものはないと思っていたが、いつしか自分の興味は違うものに移りつつあるのかもしれない。

「英路が学校にくるようになったのと、聖歌隊という存在を俺が知ったのはほとんど同時でな。意見交換のためにトンキンまで出かけた時に、向こうの教会で子どもたちの合唱を耳にしたんだ。まだ今の翠瑠くらいの、声変わりもしていない男子ばかりで構成されていてな。正に天使の声を聞いたのだと思ったよ」

この話はもう、何度でも話し出すと止まらなくなる。生徒たちなら、途中で遮るか露骨にそっぽを向いてしゃべり出すところだが、翠瑠は大人しく聞いている。最近は誰に何度同じ話をしたか分からなくなるのが自分でも恐ろしい。

「帰ってくるなり、クレティアンテ中の子どもをかき集めて音楽の話をしたんだが、残念なことに興味を少しでも持ってくれたのは英路しかいなかった。祭りの歌とは全然違う、西洋式の合唱がいかに素晴らしかったか話すと、是非自分も経験してみたいとあいつは言ってくれた。それから、二人で歌の練習を始めた」

「兄様は、歌うのが好きだから」

 翠瑠が呟く。「眠れない時、子守唄を作って聴かせてくれた」

「英路は楽器を習っていたらしいからな。音感が良かったし、楽譜の書き方も心得ていた。あいつがいないと聖歌隊なんて作れやしなかったよ」

 二人で始めた__と言っても、大人一人子ども一人で合唱が出来る訳はない。確かこうだったと俺は一度聞いただけの曲を鼻歌で披露した。正直ひどい見世物だったが、英路は笑いながらも正しい音程を拾って返してくれた。一曲思い出すまでにたっぷり一日半はかかり、それから紙に記号と文字で書き写す作業がまた手間取った。英路の器用な一面を知ったのはこの時だ。それも当たり前、幼少期から厳しい教育を受けてきた英路は大抵のことは人並み以上にこなせた。出来ないのは飯炊きや洗濯といった日常作業だけ。同じ社でも住んでいた世界が丸っきり違うのだ。

 歌い方の研究は楽しかった。腹を膨らませると大きな声が出ると聞き込み、意味を勘違いしてしこたま食事を取ったので、歌うどころか食べ過ぎで動けなくなってしまったこと。二人で喉を潰してしまいそうになり、薬草や水気の多い果実を口に詰め込んだ夜。あまりのうるささにとうとう教会の側の小屋を追い出され、クレティアンテの外れの訓の家で続けるようになった。少しずつ仲間が増えていった時の喜び。努力としつこさが実を結び、嘉定総鎮の前で合唱を披露した、特別な日。その後司祭やカテキスタから随分嫌味を言われたが、ちっとも気にならなかった。

 あの日々は今思い返しても、相当楽しかった__いや、人生で最良の思い出と言ってもいい。心底惚れ込んだ音楽を自分たちの手で再現できると確信した瞬間ほど、わくわくしたことはない。

「楽しそう」

 聞き終えた翠瑠が呟いた。

「わたしも聖歌隊に入っていい?」

「勿論だ。英路の妹と聞けば皆喜ぶぞ。何人かとは話したことがあるだろ?」

「セシリアとか、マリアさんとか」

 翠瑠は聖歌隊最年少のセシリアの名を出した。セシリアはなんとまだ十二歳で、カンボジアからやってきた。元々カンボジア領だった南コーチシナでは、カンボジア人の数が京人に次いで多い。しかし言葉は大南語が通じるので、彼女に差異を感じたことはない。人を引っ張る覇気があり、愛嬌と美しさも兼ね備えた将来有望な少女だと周囲から高く評価されている。

 セシリアは翠瑠と歳が近いせいか、近くまで来た翠瑠とよく遊んでくれていた。

「ピエトロくんも知ってる。アンヌちゃんに片思いしてるの」

「それ、どこから聞いたんだね」

「セシリアから」

 色恋の話をする時、子どもは一、二歳大人びて見える。

「ピエトロくんは見込みのない恋慕を続けてるの」

「それは、ピエトロ本人には絶対言うんじゃないぞ。傷つくからな」

 訓は欠伸をした。心地よい疲労が優しく眠気を誘っている。意識が朦朧とする前に立ち上がった。

 節に足をかけやすい木を選び、翠瑠を負ぶって登る。一度木の上に翠瑠を残し、自分は地上に降りた。火を消すためだ。小さくなった焚き火を薪ごと踏みしだき、出現した暗闇の中手探りで先ほどの木を探す。翠瑠が頭上から呼んでいるのですぐに辿り着いた。

 広がった葉と太い枝の間で落ち着ける場所を模索していると、翠瑠が囁いた。

「狼が来たらどうしよう?」

「木の上までは上がってこないよ。吠えるままにさせておけばいい」

「だけど、わたしたちが下に降りたくなっちゃったら?」

「何とかなるさ」

 翠瑠はそれ以上何も言わなかった。眠り込んでしまったらしい。寝る前に神に祈りを捧げ、訓も瞼を閉じた。浅い眠りになると分かっていた。



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