第2章 2(翠瑠)
「何故お前がここにいる?」
マングローブの林の中で、訓は少女を問い詰めた。
何が楽しいのか、ずっとへらへら笑っているこの少女は、英路の七つ違いの妹だ。兄の影響で教会にもしょっちゅう顔を出し、聖歌隊の面々から可愛がられている。素直な性格で、家柄を鼻にかけることもないので聖職者たちも彼女を好ましく見ているようであった。
ただ、兄とは違い、未だに受洗するには至っていない。洗礼を受けたらどうかと提案しに行った際、英路が家族を説得した時以上の強い反発があったからだ。特に翠瑠の母親はほとんど半狂乱になって訓たちを罵った。大事な一人娘を奪われてしまうと感じたらしい。それ以上刺激するのは危険だと判断し、訓と司祭は屋敷を引き上げた。
以来、翠瑠が教会に来る頻度は減った。英路のとりなしがあったためか、彼女の父親による教会への攻撃はなかったものの、屋敷でかなり激しいやりとりがあったと聞いた。翠瑠と仲の良かった信徒の娘が、彼女が母親に打たれたのを目撃した。また、翠瑠は一時、何ヶ月も屋敷に閉じ込められていた。
翠瑠も英路も、両親との対立を訓らに知らせはしない。こちらとしても、無闇に官吏の家に介入することは出来ない。だが、明らかに板挟みになる少女の様子を知っていて何もしないのは罪深い所業に思えた。
そうだ。翠瑠と向き合うのは随分久しぶりなのだ。
最後に会った時は、女中に連れられて限られた範囲を散歩する翠瑠に軽く目を合わせることしか出来なかった。
「どうして笑っている?」
すると翠瑠の顔がくしゃりと歪んだ。
「だって……やっと先生に会えたから、ほっとしちゃって。日が暮れても追いつけなかったら、ど、どうしようって怖かった」
太陽はかなり西に傾いている。彼女の言葉に動揺した。
「一人で来たんだな? どこに行くつもりだ? お母上の許しは貰ったのか?」
翠瑠はうなずき、それから首を横に振った。
「母様には内緒で来た。兄様に会いに行くの。この道を行けば先生に会えるって、教えて貰った」
なんと健気じゃないか。胸が軋んだ。この子と英路を必ず安全な場所で会わせなければ。
翠瑠の目には涙が浮かんでいた。慣れない草履で長いこと歩いたせいで、脚が震えているのにも気がついた。見ればこの子は手ぶらだ。もし狼に襲われていたら?
「よく頑張ったな、水でも飲みな。歌のお兄さんたちに俺の居場所を聞いたのか?」
「ううん。司祭のおじさん」
出してやった干しマンゴーを食べながら翠瑠はそう言った。
「司祭の……」
「先生と一緒に、おうちに来た人よ。狐みたいなお顔をしてる」
翠瑠は目尻を中指で吊り上げた。
カテキスタだ。同僚だ。
驚きと焦りで水筒を扱う手が乱れた。
「俺がここにいると……いや、嘉定に向かうと知っているのか」
翠瑠は首を傾げた。
「駄目なの?」
「いや……駄目ではないよ。帰ってから言い訳せずに済む」
年下のカテキスタの顔を思い浮かべた。融通が利かない、口うるさい男だ。しかし聖職者としては優秀である。
「そのおじさんは、何と言っていた?」
「先生の道行に祝福あれ。そう言ってた」
翠瑠はあっけらかんと答える。訓は黙って草履の紐を結び直した。
夜明け前に出発して、もうはや昼をいくらか過ぎた。幼い翠瑠が一緒となると、歩みが遅くなることを想定せねばなるまい。
「ところで、その格好はどうした?」
歩き始めた訓の隣で、翠瑠は跳ねるように進む。そんなにはしゃぐと後が保たないと何度かたしなめるが、元気なこの娘は気にかけることもない。
「召使いに用意してもらったのか?」
翠瑠の着物は簡素だが、むらのない薄緑色の布地といい頑丈な帯といい、かなり質の良いものであると見受けられる。
「ううん。歌のお姉さんたちが着せてくれた」
あいつらか。やけに素直に引き下がると思っていたら、こんな見張りをよこすとは。
したたかなマリアや、一旦決断すると頑固なピエトロを思い顔がつい渋くなる。それをまた翠瑠が笑う。
「笑い事じゃないぞ。ジャングルをこんな風に少ない頭数で抜けるのはとても危ないことなんだ。狼が出たらどうする? 葉で切った傷にどんな手当をすればいいか知ってるか?」
翠瑠の顔が曇った。
「知らない……」
「そうだろうと思っていた。だが俺は多少は分かっている。だから、何があっても側を離れるんじゃないぞ?」
「はい」
「いい返事だ。さあ、もっとゆっくり歩け。足が痛くなるぞ。先は長いんだから」
翠瑠が首を傾げた。
「どれくらい歩いたら兄様に会える?」
「そうだな……」
今までの経験と司祭が作り上げた地図、それと森の茂り様を頭の中で混ぜ合わせた。
「早くても三日といったところか」
「そんなにかかるのー」
「単独で移動すればこんなものだよ。一人半では野宿の準備にも時間がかかる。馬や水牛でも調達できればまた話は違うだろうが」
翠瑠は頬を膨らませ、「あたしって半分なの?」と抗議した。




