第2章 虹のかかる川 1
雨晒しの木戸をこれが最後と閉めた時、訓ではなく背後の生徒たちが慨嘆の溜息をついた。中にはどうでもいいような調理道具や衣類ばかり残してきた。泥棒が入ったとしても、このごちゃごちゃを片付けてくれるならむしろ有難い。
クレティアンテを空けるのは随分と久しぶりだ。他管区視察も、ここ最近は一切同行していなかった。
「先生、やっぱり私たちもついていきます」
カトリーヌが訓に詰め寄る。他の子どもたちもうなずいた。一人欠け二人欠けする普段の練習とは違って、聖歌隊の面子は勢揃いしている。
「駄目だと何度も言ったはずだ」
「でも、先生が盗賊に襲われでもしたら!」
「留守中神に祈ってな。俺の災難は自分で何とかするさ。だから、お前たちも自分の仕事をするんだ。分かるな?」
カトリーヌは聞き分けが良い。何度も同じ叱責をさせることはない。
「それよりも、出発した後の言い訳を頼む。一日では思いつかなかった」
「訓先生がちゃんと謝れば、司祭様も理解してくれます」
「それは嫌みか?」
嘉定までちょっとした旅に出るのは実はこの子たち以外には秘密にしていた。穴を埋める同僚たちはさぞ怒ることだろう。いや、怠け者一人抜けたところで支障はないか?
「すぐに帰ってくる……多分な」
「英路兄さんを説得してくださいね」
英路と特に仲の良かったマリアがつぶやいた。今の訓はそれを請け負うことができなかった。
教会に立ち寄ることができないが、森の中で両手を組む。
「私は信じます」
何百回、何千回と繰り返したこの宣言は、もはや意地だった。
阮英路という若者、阮訓と姓は同じだが別段血縁関係はない。阮という姓は無数にいる。この時より三十年ほど前まで大南を占領していた西山党三兄弟 も阮であったし、なによりも阮朝帝室は広南阮氏 の流れを汲んでいる。しかし、阮という姓に皇帝との繋がりを見出すには、少しばかり母数が多過ぎる。
英路の生まれた家は儒教を戴き、宮廷に仕える文紳をずっと輩出してきた。彼の父親は順化から派遣されてきた官吏で、母親もまた名士と呼ばれる家の出である。多くの子どもより遥かに多量の勉学を与えられた英路もまた、訓と出会った時は立派な小儒者であった。
獣道を歩き、顔にぶつかる甲虫をひっきりなしにはたき落としながら、訓は思い出し笑いをこらえた。
あの頃まだ英路は八つか九つだった。幼い妹の手を引き、異教を広める不届き者を成敗せんと意気込んで訓のいた教会に乗り込んできた。清の習俗を模した丈の長い絹の衣服には、金糸で龍の刺繍がされていた。
肩を怒らせて小さな足を踏ん張り、訓を睨みすえたきつい顔に、思いがけない好ましさを抱く。文紳の子は誰に対しても生意気な口を叩くが、本気で腹を立てる大人などいやしない。あどけない顔と高い声で発言の過激さが中和されるのであろう。
だが、開口一番、こう命令されたから困った。
『異国人は今すぐ出ていきなさい!』
『出て行く? どこへ?』
『どこって……この国から』
『何故? 俺は見かけこそこんなだが、歴とした大越の民だ。税だって納めているよ』
『お前は異教徒でしょう! 父上が怒ってた』
『黎大公は我々の信じるものを認めて下さっているよ。それとも君のお父上はあの方よりも偉いのかな?』
幼い英路は言葉に詰まった。必死に次の言葉を考えるくしゃくしゃの顔を今でも覚えている。まだ指しゃぶりをしている妹が彼の顔を見上げていたことも。
『偉い……と思う』
『ほう』
『だって、父上はいつも黎大公をやっつけるお話をしてくださる』
おっと!
『その話はやめよう、坊や。かなり危険だ』
幸い、教会の中には誰もいない。が、誰がどこで聞き耳をたてているか分かったものじゃない。フランス語で内緒話をするのとは訳が違う。
信徒の多くは、文紳や地主に税を搾り取られる百姓や漁師である。上辺は礼を尽くしているが、内心恨みを溜め込んでいる者がほとんどだ。実際、役人の立ち入らない教会の中で信徒が集うと、大抵は税の重さや官吏の横暴さで話が盛り上がる。
反乱を起こそうという気概はないものの(あったら訓たちも困る)、英路の発言を黎大公の手下に耳打ちするぐらいは容易いことだ。「黎大公をやっつけるお話」が何を意味するか、分からない者などいない。
子どもの無邪気な言葉がきっかけで一つの家庭が破滅を迎える。想像するだけでぞっとした。たとえ信仰に反する人々だとしても、妥当な天罰だとはどうしても思えない性分なのだ。
先を封じられて黙ったままの小さな兄妹に、まあ座れと椅子を出した。竹で作った背もたれのない代物だ。
『坊やたちは、お父上のことが好きなんだな。だから、お手伝いをしたいと思って、俺たちを追い出しにきた』
訳の分からない顔をしながら英路はうなずいた。
『お屋敷ではキリスト教のことを何と言ってる?』
『異国人が持ってきた……妖しい邪教だって』
『そうかい。気持ちは分かるよ。よく知らないものを海の向こうから持ってこられたら怖いよな』
また、こくり。
『だけれど、この大南で、沢山の人がキリスト教を信じると決めたんだ。どうしてだと思う? 皆、最初は異国人の宣教師に近づきもしなかったのに』
『分かんない』
『じゃあ、もう一つ聞いていいか? 君のおうちは、きっと儒学か仏教を信じているね。それはどうして? どっちも、異国からきた教えだと知っているか?』
『……それも、分かんない。父上やお祖父様が教えてくれたから?』
『じゃあそのお父上たちはどうして儒学を信じているのだろうね。それは俺にも分からない。だが、キリスト教については言えることがあるよ』
訓は、聖書を読む時心に満ちる喜びや、同じ信仰を分かち合う仲間と語り合う楽しさ、讃美歌を初めて聞いた時の雷に打たれたような感動を英路たちに語った。意味のほとんどが分からなくとも、自分が心から楽しんでいることだけは伝わればいいと思った。
『俺たちはキリスト教徒でいることが楽しいから、目に見えた救いが今はなくてもキリストを信じているんだ。お父上のような官吏に逆らいたくてキリスト教徒になったんじゃない』
英路は大人しく聴いていた。
『だからな、キリスト教を信じているからといって敵だと思わないで欲しいんだよ。今ではキリスト教徒は村の半分近くに増えている。彼らを無理くり抑えつけるのではなく、今後長いこと自ずから従ってくるように上手く付き合っていくのが、官吏としての徳となるのではないかな』
それから少しして別のカテキスタが教会に入ってきたので、英路たちを帰らせた。あれだけ乱暴だった小さな口をぴたりとつぐみ、英路は訓の言葉に従って真っ直ぐ屋敷に戻って行った。
あれ以来、英路はしょっちゅう訓の元に遊びに来るようになった。何をしにきたかと言うと、彼がお屋敷で習ってきた知識を話す。それを訓が聴いていると、今度は訓にも話せとねだる。
キリスト教のことが聴きたいのだと知った時は戸惑いつつも嬉しかった。聖書の話も司祭のように滑らかには話せないが、英路は気に入ったらしい。そのうち、ラテン語の講義にも参加し始めた。聡明な子であったから、訓には過剰とも思えた量の学問もとんとんと吸収していった。
ぼんやりと流していた回想を打ち切ったのは、視界の端に人影が映ったからだ。
「誰……」
すでに訓は村を出ている。知らない人間ならば礼を失しないように、といいつつ敵(この場合、司祭が追ってくる恐れもあった)であることも想定して懐の短刀に手を伸ばした。
しかし、予想に反して彼は不作法かつ無用心に大声を上げることになった。
「お前……!」
訓は唖然とした。ここにいるはずのない人間が、あろうことか彼と同じように旅装に身を包み、近づいてくる。
小柄な、黒目がちの目をした可愛い娘だ。訓と目が合うとにっこり笑った。笑い返す余裕はなかった。
「翠瑠!」




