13(説教)
殴られた衝撃からすぐに立ち直った男は、訓につかみかかり、万力を込めて首を絞めようとした。
「やめろ!」
ミゲルが一声叫んで男の背中を強く蹴る。失神しかけた訓だったが、すんでのところで解放され、激しく咳き込んだ。
男が訓をぎらついた瞳で見つめた。
「お前が怜の愛人か?」
「ち、違う」
「そうなんだろう? え? お前を生きたまま切り刻んでその肉を怜に食わせてやる!」
訓は男を家の中に突き飛ばし、自分も中に入ってから、二人の生徒に叫んだ。
「戸を閉めて、決して中から開けられないようにしろ!」
「はい、でも……」
「いいな、俺が呼ぶまで決して開けさせるな」
ミゲルとアンヌは、真っ青な顔でうなずいた。戸を完全に閉ざした後、外から試行錯誤の音が聞こえてくる。試しに内からそっと戸に手をかけたが、びくともしなかった。
薄暗い密室の中で、訓は男に向き直った。
「さあ、これで二人きりだ。お互いしばらくは出られないぞ」
頭を壁にぶつけた男がうめく。
「好都合だ……お前をじっくり殺せるからな」
「それもいいが、この先時間はたっぷりある。俺を殺した後は死体と寝泊まりする羽目になるぞ」
「壁を壊せば一瞬だ」
「その音を聞きつけて、応援がやってくる。あんたを捕まえに」
訓は囁いた。「人殺しの罪は重いぞ」
しかし、男はあざ笑った。
「お前みたいな調子こいた司祭なら、前に殺したことがある。簡単なものさ。誰も気づきやしなかった」
男の顔に差した影が、訓をひるませた。__彼の言うことが真実なのだと訓は察した。
「何故殺した?」
「怜に色目を使ったからだ! まだ何も分からない怜をたらし込んで、近づこうとした! だから制裁を加えてやったんだ。何が悪い?」
男が訓に顔を近づけた。非人間的な引きつった顔を間近にのぞき込んで、訓は喉にせり上がる恐怖を辛うじて飲み込んだ。
「怜はおれの物だ。怜を狙う奴は誰だろうと承知しない。たとえ地獄に落ちてもおれは怜を離さない」
「何故__?」
訓は問いかけた。
「どうして、そこまで怜を……その、愛しているんだ? どうか俺に教えてくれないか。今は暇だし」
男は少し迷っていたようだったが、どうやっても開かない戸を見て諦めたように座り込んだ。乾いた唇をなめ、溜息と共に過去を吐き出した。
「怜は土地神様がおれにくれた嫁だ。叔母の元に怜が生まれた夜、昔から毎日祈っていた祠の神様が夢に出てきた。今日生まれた赤ん坊がお前の未来の嫁だ。大事にしろと言った……お前のようなキリスト教徒には理解できないだろうがな」
訓は静かに相槌を打った。
「小さい時は、怜もおれに従順だった。毎日遊んでやるとどこまでもおれの後をついてきた。おれの父母も、叔父叔母もおれたちの結婚を認めてくれていた。だから、おれは根気よくあいつの面倒を毎日見てやったんだ。食事を食わせてやったし、髪も櫛でとかしてやった。あいつの欲しがるものは、何でも買い与えてやった。それなのに、あいつはいつからかおれに逆らうようになった。それもこれも全てあの司祭が悪い。あのろくでなしが学校に通う怜を洗脳したせいだ!」
だから、排除した。男は冷たく吐き捨てた。だが、その声の端がわずかに震えている。
「紅河に突き落としたら、二度と戻ってこなかった。これで怜を苦しめる者はいなくなった! 楽しい日々が続いたものさ。盛大な婚礼を挙げて、おれの好きな桃の衣をこの手で怜に着せてやった。化粧も、髪飾りも全ておれが選んで怜に施してやった。怜も喜んでいたよ。おれが何度も楽しいか尋ねたら、必ず笑顔でうなずいていたからな。婚礼の夜は、とうとう彼女の全てをおれの物にした!」
恍惚として思い出を語る男。不意に吐き気がこみ上げた。訓は口をきつく手で押さえて何とかこらえた。こちらの異変には一切目もくれず、男は語り続ける。
「あの時が生きている中で最高の時さ。だが、怜はある日突然逃げ出した。森の中でくたばりかけていたところを救い出した時、おれは彼女のために社を捨てて都に出ることを決心した。怜が逃げたのは、社の女たちに苛められたせいだったからな」
「そう彼女が言ったのか」
「いや。だが、そうとしか思えないね。あの頃、新婚の怜は女たちの仕事の輪に上手く入れていなかったからな。だから、おれは、怜に働くなと言ったんだ。昼間も家に居て、おれの帰りを待つだけでいいと。彼女は言うことを聞いたが、その後も苛めは収まらなかったんだろうな」
男は続いて、順化での日々を語った。怜を縛りつけてから働きに行った話の途中で、外から地団駄を踏んだような音が聞こえてきた。
順化でまた怜に逃げられた男は、今度は怜に男が出来たのだろうと怒りを募らせていった。
「怜をこの社に呼び寄せたのはお前だろう。順化であいつをたぶらかしたんだ。司祭が怪しいと思ってたんだ」
「俺は順化に行ったこともないし、司祭でもない」
「じゃあ何故怜がお前の家にいた? それとも、あのガキどもの中の誰かが怜の愛人か?」
「違う。違うよ」
訓は男の腕にそっと手を置いた。
「あんたが大事だと思っている人に手を出したりするものか。ずっと愛してきた、運命の人なんだろう?」
「そうだ。おれこそが怜の永遠の夫だ」
「彼女のためにずっとあんたは頑張ってきたものな。では聞くが、彼女のどこが好きなんだ?」
「そりゃあ……麗しい見目と、控えめな態度と……」
「彼女の顔は、言っちゃ悪いけど、大きく損なわれてしまった。もう、あんたが愛した怜の顔じゃない」
男は沈黙した。
「控えめな態度と言ったが、あんたの元を何度も逃げ出し、今もあんたの愛を拒否する怜が、本当に控えめで従順か? あんたは、自分で作り出した怜の虚像に振り回されて、あんた自身を苦しめているんじゃないか?」
「そんなことは__ない」
彼の目が泳いでいる。
「もう一つ、聞かせてくれ。彼女を好きになったのはいつからだ?」
「そりゃあ……怜が生まれた時から……」
「本当に? 何も分からない赤ん坊を、大人の女性のように愛せるのか?」
窓にも錠を下ろした、日の差さない家の中で訓は男の肩を揺さぶった。
「ただ神のお告げを夢に見ただけで、一人の女に執着してさまよっているというのなら、俺は、あんたが可哀想だと思う」
「おれが、かわいそうだって?」
訓は大きく頷いてみせた。
「彼女を連れ戻しても、きっといつかはまた逃げ出してしまう。今度はどこに行くか分からない。カンボジアかシャムか、哀牢にだって行ってしまうかもしれない。そのたびに、積み上げてきた生活を粉々に壊して彼女を探しに行くのか。それは__あなたにとって不幸だ」
「……不幸」
「そう。あなたは順化や故郷を捨てたかったか? 残してきた家族や友は気にならないだろうか?」
男はとうとう、頭を抱えてその場にうずくまった。訓は一度口を閉ざし、内壁に生徒が残した落書きや聖母画を眺めていた。
訓の言葉が男に届くのか、それは神のみぞ知る。今は納得しても、また彼女への歪んだ愛情が再燃し、再びつけ狙い始めるかもしれない。何せ、この呪いじみた「愛」の物語は、二十年近く続けられているのだから。双方にとって、簡単に忘れられるものじゃない。
訓の説得が失敗したら。訓を殺した後、男はまた怜に襲いかかるのだろう。どちらかが死ぬまで、止まることの出来ない車輪のように。
彼女が死ぬまで、か。
「……そんなことを言って、怜をおれから引き離すつもりじゃないのか」
そう呻いて男が訓を横目で見上げた時、訓は勢いよく立ち上がった。虚をつかれて男がのけぞる。
「そんなに会いたいのなら、呼んでこようか」
「本当か?」
「ただし、暴力はなしだ。落ち着いて会うために、あんたはここで待っているんだ。いいな?」
男は目を大きく見開いて、何度も頷いた。訓は戸を叩き、外で待っているミゲルたちに呼びかけた。
「俺だ。訓だ。戸を開けてくれ」
すぐに返ってきた返事はかなり慌てていた。
「先生! よかった……ご無事ですか?」
「ああ。頼みがある……怜をここに連れてくるんだ」
アンヌが叫ぶ。
「駄目!」
「俺が頼んでもか?」
ミゲルも承知しない。
「いくら先生の頼みでも、それはのめません」
訓はちらりと座ったままの男を見て、囁いた。
「まあよく聞け。彼女のためなんだ……戸を開けろ」
渋々わずかに開けられた戸に指を差し込んで、訓は強引に外に出た。二人がきつい目で睨みつけてくる。
「聞けといっただろう!」
それから訓は二人に耳打ちした。ミゲルもアンヌもとうとう了承して、走って行った。訓は再び戸を閉め、男に向き合った。
「大人しく待てるか?」
男は何か言おうとして、ためらった。
「どうした?」
「……怜に会っていいのか、分からなくなってきた」
「どうして?」
「怜のことを考えると、おれは頭がどうかしちまう」
自覚があるとは驚いた。
「それで?」
「怜を見たら、かーっとなって……」
「それは愛しているんじゃない、彼女に腹が立つだけじゃないのか。彼女を愛していると言い張るのは、土地神とやらに義理をたてているからじゃ」
騒がしい足音と共に、汗だくになったミゲルが駆け込んできた。
「先生! た、大変です! 怜ちゃんが……!」
セシリアも一緒だ。大袈裟に嘆きながら訓と男の前に体を投げ出した。
「怜がどうした! 何かあったのか?」




