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第6章 13

 起こされた時には、今までにないくらい億劫だった。立ち上がると足が震えて歩行も覚束ない。心配する牢番の前で見栄を張るため、分けてもらった布をきつく噛み締めることで体に力を入れてみた。

 刑場となるのは順化の中心にある広場だった。普段はそこで露天商が賑やかに商いを行っている。今日は訓だけのために屋台が全て撤去されていた。竹矢来でぐるりと囲まれた広場の真ん中に、一本の柱がぽつんと立っている。


 昨日以上の人間が、訓の死を見るために集まっている。反乱の首謀者の最も重い刑という触書は、多くの野次馬を惹きつけた。

 コーチシナから来た司祭たちは、群衆の中に紛れて待機していた。マルシャンは、編み笠で顔を隠したフランスの軍人と小声で打ち合わせしていた。時折、広場の大きく開けた空間に視線を飛ばす。妙に興奮しているようだ。早口のフランス語で、笑みさえ浮かべている。

 人々は竹矢来に身を乗り出して、一斉に野次を飛ばし始めた。訓を乗せた馬が到着したのだ。筵を敷かれた裸馬の背中で、囚人服姿の訓が後ろ手に縛られたままうつむいていた。

 マルシャンの傍らの高文司祭は、馬から降ろされる訓を沈んだ顔で見つめた。衣をはぎ取られた訓はさしたる抵抗もせず、柱に厳重に縛りつけられた。あんなに痩せてしまって。小さい時は、食べるのが好きでころころと太っていたのに。誰かが訓に腐った野菜を投げつけ、顔に命中した。たまらず目を背けようとして、それこそが訓へのひどい裏切りだと思い直した。

 ふと気がつくと、マルシャンが高文を見ていた。

「怖いのか?」

 質問の意図が分からず、高文は誤訳かもしれないと思って黙っていた。マルシャンは言葉をさらに重ねた。

「震えているようだ」

 指摘されて初めて気がついた。高文のむき出しの手はぶるぶると痙攣していた。手を握り合わせ、きつく押さえつける。祈っているような姿になる。

 マルシャンがそれを見て笑う。

「ジョルジュのために祈ってやるといい」

 ジョルジュ__その呼び名が、高文の記憶を呼び起こす。訓が子どもだった時、クレティアンテにはフランス人が大勢いた。そのほとんどは、高文や訓を洗礼名で呼んだ。彼らは高文たちが西洋人の模倣をしていることを喜んでいるようだった。

 ジョルジュと呼ばれた幼い男児は、悪い意味で特にフランス人の注目を浴びていた。パリ外国宣教会の英雄の息子。だが、戒めを破った末に出来た恥の子。規則を守ることにうるさかったピニョーに恨みを抱いている聖職者は思いの外多かった。

 いつしか、親がいない故に大人しかった訓には、何をしてもいいという不文律ができあがっていた。そして、ある時高文は悲劇的な場面を目撃することになる。

 訓がひどく虐げられていたその現場に飛び込んだ高文は、全力を尽くしてその場にいたフランス人たちを大南から追い出した。当時訓の受けた精神的衝撃は大きく、まともな人格の大人に育つことは出来なくなったのではないかと心配させられた。

 表面上は、訓は普通に成長した。成人の年齢に達するまで真面目に勉強を続け、フランス語の成績も誰より良かった。だが、次第に彼は周りの人間を誰も信用しないようになっていった。

 思い出に浸るのを中断して柱の周囲に意識を集中する。役人が、訓の罪状をつらつらと読み上げている。

 全部でたらめだ。そこにいる訓は誰よりも優しい。誰にも顧みられずとも、昔から常に自分よりも他人を思いやる子だった。大声でそう教えてやりたい。しかし自分は思い描いているよりも臆病だ。

 訓に母親の秘密を教えたのは、彼が十六歳になった年のことだった。自分が実は嘉隆帝の甥だと知った訓は、喜び驕るのではなく怒りを見せた。どうして父親は自分を作った。しかも信頼されていた嘉隆帝の妹なんかと。それは、神と皇帝陛下への裏切りではないのか。自分の父親は聖職者失格だ。

 その怒りに上手く返事ができなかった高文を、訓は見限ったようだった。それ以来訓が高文を父親のように慕うことはなくなった。家もわざと教会から離れた場所に建て、人と滅多に関わらないような仕事を選び、ますます周囲に嫌われるような言動をするようになり。

 マルシャンが何かを言った。

 フランス語を聞きとるには、意識の転換が必要だ。耳を傾けると、マルシャンのとんでもない計画が飛び込んできた。

「ジョルジュが絶命した瞬間、隠れているフランス兵が一斉に発砲する。また、ツーラン港にも伝令を送り、待ち構えていた軍艦が砲撃する手筈となっている。ジョルジュはフランス人だとフランス軍に伝えてあるからな。フランス人がこうして酷い殺され方をしたとあれば、フランス政府はこの国を許しはしない……」

 柱の前に立つ執行人が、短刀を鞘から抜いたところだった。

「それが出来るのなら、今すぐ訓を助けられるでしょう」

「分からないのか? 計画の神髄は、ジョルジュが死ぬことだ。ジョルジュの死を理由にしてフランスが大南を植民地にする。その後で、住民をいくらでもキリスト教徒にすればよい」

 高文は絶句した。

「大南を……フランスの属国に……?」

「その通りだ。勿論、司祭たちには特別な待遇を約束しよう。だが、そのためにはジョルジュにまず死んでもらわなければならない」

 マルシャンはにやりと笑った。

「素晴らしい計画だろう? 皆が幸福になる。ジョルジュは晴れてピニョー猊下を超える聖人となり、我々は大南を神の国にできる」

 これこそが聖戦だよ。マルシャンの言葉に、フランス人がうなずいた。




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