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第6章 12

 地下の牢獄では、叫び声やすすり泣きがよく響く。あれは誰ですかと牢番に聞けば、元宮廷の実力者が多く投獄されていることを教えてくれた。明命帝は、嘉隆帝贔屓の老臣が何よりも嫌いなのだそうだ。さもありなん。文懐の父親だって死後墓を明命帝に鞭打たれたらしい。

 父親のことを誇らしげに語る文懐の姿を思い起こし、胸が痛んだ。嘉定で彼に出会ったことが、森の中で皆が戦っていたことが、何十年も昔の出来事に思われる。

 早く死にたい。会いたい人間は大勢いる。英路、秀、文懐。そして__父親のアドラン司教。懐かしく思い出す記憶もないのに、未だに自分を縛り続ける偉大な影。

 足音と供に、明かりが近づいて訓の視界を一気に眩しく照らした。牢番が歩いてくる。後ろに誰かがいることに訓は気がついた。

 牢番が、格子の隙間から訓の房を覗き、「起きているか?」と聞いた。

「……ええ」

「そりゃよかった。お客様だ」

 客?

 前に出た人間を見ても、訓の戸惑いは消えない。何故なら見たこともない男がそこにいたからだ。六十をやや過ぎたように見える。立派な衣と冠からして、宮廷の官僚らしい。

「阮福訓」

 しわがれ声が訓の耳に波を立てた。

「……はい?」

 格子に近づこうとして、首枷が邪魔をした。よたよたと這い寄る訓を見て、男は微かに顔を歪めた。

 同情しているのか。なんと無意味な。

「あなたは?」

「おい、無礼な口の聞き方をするんじゃない」

 慌てる牢番を制し、男は顔を近づけた。

「よい。……阮福訓。私は、ある方の頼みでここに来た」

 男は大臣の一人らしい。

「先程は広間にいたのだが、分かったかね?」

「いいえ、全く」

「そうか。では、その中にある女性がいたことは?」

 訓はさっと答えた。

「気づきませんでした」

 それを聞くと、大臣は悲しげに首を振った。そして、声を一層低めて、

「__実はそなたのお母上が生きておられると知ったら、死ぬ前に一目でも会いたいかね?」

 答えはすでに決まっている。だがそれでも訓は躊躇した。血を分けた肉親に会いたくないかと聞かれれば、__そんな訳がないのだ。二度と会えないととうの昔に諦めた、やり場のない切望が叶えられるというのか。こんな、死を目前にした果てしない恐怖の時間の中で。私はあなたの母親です、会いたかったわと名乗る老女が両腕を広げて会いにきたところで、罪人として枷をはめられた自分はどんな顔をして向き合えばいい。

 子どもの時、実の両親に一度でも会えたら言いたい言葉を用意していた。あの頃は、自分を愛していている親がどこかにいると信じていた。いつか必ず、あの辛く恐ろしい日々から助け出してくれると毎晩神に祈りながら眠った。

 今やっと、神が応えてくれたのか? 随分遅いな。それに、残酷なお膳立てまでして。母親に会いたいかと問われるためだけに、故郷から遙か遠いこの宮廷に来るまでに、あまりにも多くの別れを味わった。それともこれが神の試練だというのか?

 そんな泥沼のように救いのない道が神からの贈り物だとすれば、俺は__

「会いたいとは決して思いません。私をこのまま死なせて下さい。もし母という人間が生きているならば、私のことは忘れてほしいとお伝え下さい」

 愛していたかもしれない人を、遠ざけるしかないではないか。誰がどう考えても、母親とかいう人がここに来るのは危険だ。明命帝に万が一知られたら、どんな恐ろしい未来が待っていることか。

「それが、そなたの選択か」

 大臣は呟き、慣れた手つきで十字をきった。なるほど彼はキリスト教徒か。

「処刑は明日だと聞いた。そなたの死は、必ず無駄にはならぬ。イエス・キリストのように殉教したそなたは、必ず聖人として永久に崇められるであろう」

 訓は眉をひそめた。急に話が飛んだ気がして。大臣はかまわずに続ける。

「そなたの最期を見届ける仲間が大勢順化に集まっている。安心して彼らにキリスト教の未来を任せるがよい」

 よいな、潔く死ぬのだ__大臣が何度も釘を刺す。

「さる方からの助言じゃ。聖人らしく振る舞え。恐怖を見せるな。そなたの死が完遂することによって、大南に奇跡が起こると」

「それは、どういう……」

「さらば、ピニョーの息子よ。ピニョーもそなたのように勇敢だった」

 言いたいことを全て言えた、すっきりした表情で大臣は訓の前から立ち去った。残された訓は、大臣の言ったことを頭の中で反復する。


 聖人らしく振る舞え……か。それがどんなに難しいか、大臣には分からないのだ。ピニョーに今さら言及したのも業腹だった。結局最後まで、自分はピニョーの息子でしかない。


 訓を訓として見てくれた人間が、今まで周りにいただろうか。ピニョーの息子だからと訓にフランス語を仕込み、嫉妬を募らせた聖職者どもが鬱憤のはけ口にした。反乱に加わったのも、マルシャンが必要以上に訓に期待をかけたからだ。


 誰でもいいから恨みたい。自分が破滅した責任を押しつけたい。自分がここにいるのは誰のせいだ。両親か。環境か。マルシャンか、文懐か。


 __全部間違いだ。本当は、自分が悪いのだと分かっている。自分が不用意に英路をキリスト教徒にしたから、幼い翠瑠を連れて嘉定まで行ったから、文懐に秘密を明かしたからこうなった。自身の判断力の欠如と能力の不足こそが、訓を陥れた。


 ならば、もう見苦しい真似はできないではないか。ささやかな誇り__捕らえられてからずたずたに引き裂かれた自尊心をかき集めて天国まで持っていくためには、言われた通りに聖人になるしかない。


 朝までの時間はやはり長かった。眠ろうとして、何度も失敗した。寝ている内に不意の病で死ねはしないかとまだ見苦しい期待をかけていた。




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