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第6章 10

 周囲から一斉に怒りや軽蔑の声が上がった。壁の前にいた唯一の女も、ひどく顔をしかめている。しかし、明命帝はびくともしない。冷徹な目で、訓の口にあった物を見下ろしている。

「何のつもりだ」

 訓はようやく自由になった口をもう一度開いた。取り上げられないようにずっと口の中に十字架を隠していたせいで、何も食べられなかったのだ。

 小さな十字架は、宮廷でも金色に輝いていた。

「……この十字架に彫られた名を、どうかご覧下さい。……阮福暎と書かれています」

 部屋がざわめいた。

「そう、先代の嘉隆帝陛下のお名前ではありませんか?」

「何が言いたい」

 明命帝の冷ややかな目に、怒りの火が灯った。訓は内心縮み上がる。自分を奮い立たせるのに精神を集中させた。

「私はこれを……子どもの頃誰もいない川のほとりで、知らない男性に貰いました。男性は私をわざわざ社から連れ出して、話をしながら一緒に散歩をしてくれました……」

 訓は、翠瑠や華と渡った川のきらめきを思い出しながら、声を張り上げた。

「その方は、誰にも言うなと釘を刺しながら、私にこの十字架をくれた! 大南のキリスト教徒には、父親から息子に十字架を贈る習わしがあります。だからこの、阮福暎と刻まれた十字架は……」

「今さら、嘉隆帝の遺児を名乗るつもりか?」

「違う。私の父親はまぎれもなくフランス人です。名前はピニョー・ドゥ・ベーヌ、阮朝建設にある程度貢献した男だ。ただ、私の母親は……」

 川での邂逅には、後日談があった。訓の住むクレティアンテに突然金の詰まった袋が贈られたのだ。

 訓は父親の顔もほとんど覚えておらず、物心ついた頃からコーチシナの司祭に育てられていた。母親の存在も、十歳になるまでは知らなかった。その頃親のない子は決して珍しくなかった。

 母親がどこかで生きているらしい。司祭たちの立ち話を盗み聞きしてそれを知った訓は、母についてもっと知りたいとせがんだ。だが、知識が増えたのは結局それから五年以上経った後のことだった。ピニョーの生前の女性関係について悪い噂がクレティアンテで流布するようになり、とうとう高文が密かに訓の出生の秘密を教えてくれた。

「母親は……」

 高貴な立場のお方で、それ故に訓を育てることはどうしてもできなかったのだと聞かされた。今まで一度も会ったことがなかった。どんな顔をして、何をしているのかも知らなかった。成人してからは考えることをやめた。一生かかっても会うことのできない場所にいると言われたからだ。

 そして、今。訓は明命帝から目を逸らさない。ただ一人だけを親の敵のように睨みつけ、それ以外の人間に目が向かないよう祈った。周りで誰がどんな顔をしているのか知ろうとも思わなかった。

「……名前のない、嘉隆帝陛下の戦いに加わった女だったのでしょう」

 細い声がどこからか漏れた気がした。訓は大声を張り上げる。

 自分が父親に似ていることに、これほど感謝した瞬間はない。

「陛下、お聞かせ下さい。何故南圻の民を虐殺させたのですか?」

「虐殺、とな。我らの力が罰を与えたのは、反逆者のみだ。西洋の迷信に傾倒し、国を乱す不届き者だけ」

「何故、キリスト教徒を憎むのです。彼らもあなたの民なのに」

「そなたらの存在自体がひどい過ちであるからだ」

 明命帝に少しも動じた様子はない。

「過ち、ですか。私たちは、ただ魂の救済を信じただけなのに」

「西洋の蛮賊に国を食い荒らされるのが救いだというのか!」

 明命帝が、剣を訓の近くに投げつけた。激しい音がして、一瞬にして恐怖を思い出す。

「我が父嘉隆帝は偉大な世祖であることは疑いようもない真実だ。だが、それと同時に父上は西洋人が大南領内を跋扈することを許し、キリスト教徒を庇い立てした。それが過ちだと幼い私にも分かったのに、恩義があるというだけで皇帝ともあろう者が丸め込まれていいものか!」

 明命帝は立ち上がり、訓に近づいてくる。

「父を敬う心があるからこそ、間違いは正さなければならぬ。例えそれで、傷つく者がいたとしても。私は信じた道を進む。大南帝国を背負って」

 明命帝は息を荒げていた。大臣たちが気遣って腰を浮かせている。それを無視して明命帝は訓の前に立ちはだかる。

 皇帝は__訓は噛み締めるように心の中で呟いた。自分と同じだ。父親への屈折した愛情を今でも抱えて、自分の歩むべき道を探している最中なのだ。

 自分にはもうその未来は残されていないけれど。

「陛下」

 訓は震えながら囁いた。

「あなたが、例えば父親を深く愛していて__自覚していなくともそうであったら、父親の業績にどう向き合いますか。とても自分には父親のような強さや華がないと分かっていたとしたら」

「父親を超える」

 明命帝は即答した。

「世祖が何だ。今の皇帝は私だ。幼い頃から膨大な時間を学問と鍛錬にひたすら費やしてきたこの私が、どうして嘉隆帝阮福暎に劣ることがあるものか」

 そこで明命帝は嘲るようにこう言った。

「父親の愛がどうとか、まつりごとには何の関係もない。私がするのは過去の事実の検証だ。そして、より強大な国を作るだけなのだ」

 それから明命帝は、訓に向かって告げた。

「もう議論は十分だ。阮福訓、そなたを凌遅刑に処す。全身を切り刻まれながら、自分自身の行いを悔やむがよい」

 両脇の兵士に促されても、訓の体は動かなかった。腰が抜けてしまったらしい。明命帝が煩わしそうに手を振る。兵士に抱えられて訓は再び牢獄に戻された。



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